自衛隊「影の部隊」
三島由紀夫を殺した真実の告白
山本舜勝
2006.12.24
 三島由紀夫はその衝撃的な割腹自決によって今なお多くの人に記憶されている作家である。その最期が何故市ヶ谷の東部方面総監部への突入でなくてはならなかったのか、漠然と「愛国と武士道と美学」であろうか、などと考えていた。しかし、本書を読んでそれよりも遙かに衝撃的な「クーデター未遂計画」だったのだと知った。
 その伏線としては、

1960年安保闘争激化
 6月15日、18日に岸信介首相が赤城宗徳防衛庁長官に治安出動を要請するも拒否さる。
  本書に依ればこの時、自衛隊にクーデターの意志が有ったとある。随分きな臭い事である。ところが、その絶好の機会を、「自分たちの力でクーデターをやる」とばかりに拒否したのだ、と本書では書いている。様々な立場で異なる様相に見えるのだろうか。
1961年 三無事件(さんゆうじけん)
 旧日本軍将校らが画策したクーデター未遂事件。現職の自衛官の関与も疑われていたが表面化せず。

 という大事件が有って、安保条約が10年ごとに更新であったので左翼勢力は1970年前の闘争を予定しており、60年安保と同じ状況が現出することが広く世間でも予見されていた。そうなると三島由紀夫としては、機動隊では暴徒を鎮圧できない状況が起こり、60年安保時に岸信介首相が治安出動を要請した様に、再び自衛隊に治安出動の機会が訪れるのではないか、と予想していたらしい。ここからはちょっとついて行けないが、三島氏としては10年に一度のビッグウェーブである70年安保闘争を逃して次にチャンスは無い、と思い定めていたのだろう。なにしろ80年になったら三島氏は50歳を超えていることになるのだから。70年安保で自衛隊が治安出動要請されたその時、三島氏は皇宮に突入し、暴徒と戦って撃退し、何でだか分からんが責任を負って割腹、そして共に決起する筈の著者である陸上自衛隊調査学校教官の山本舜勝陸将補も自決、陸軍中野学校卒業生でインドで活躍したF機関の機関長であり、陸上自衛隊調査学校長となっていた藤原岩市陸将も自決、H陸将も自決、という計画だったという・・。そして自らが武士道を貫いて自決し、後に続く者を誕生させ、天皇中心の日本へ回帰させる、というものだったらすィ・・。

 のだが、このプロットは天才三島由紀夫には蓋然性が有ったのかも知れないが、ここまで文学的な流れには凡人には到底ついていけない。世の中、そんな文学的には出来ていない。無理である。筆者は藤原岩市陸将から三島由紀夫氏を紹介され、調査学校の”対心理情報課程”として訓練を施したという。時は70年安保で騒然たる情勢。1969年1月には東大安田講堂事件、10月21日には国際反戦デーという安保闘争の頂点、1970年3月31日にはよど号ハイジャック事件である。そしてこの年の11月25日に突入、自決となる。この期間に調査学校の訓練として安保闘争の渦中に飛び込んだり、情報機関員の実地演習といったことも行っていたというのだから驚く。本来はこうした訓練内容は秘密の筈であるが、元々の調査学校が消滅し、対心理情報課程も消滅し、しかも著者が死期が近いのを悟って語る事にしたようだ。この本が出版された2001年に著者は逝去している。

 著者は繰り返し、三島氏が何かを心に決め、事態は切迫していると想像しつつも、しかしそれに同調できず、かといって強引に引き留めたり説得したりも出来ず、次第に心が離れて行き、最期を迎えた事を後悔している。著者は三島氏を志を共にする同志であると言い、最も優れた生徒であったとも表現している。そしてその感性の鋭さ、人間性にも大変心引かれていたようだ。それだけに自分が最期を共にしなかった事が後ろめたくてならなかったらしい。しかし、情報将校としては自決すべきではなかった、三島氏は文人として生きて影響を及ぼし続けるべきだった、と三島氏のライバルであり現在の都知事である石原慎太郎氏を例に挙げて惜しんでいる。

 当時の世相からして、どれだけ三島氏の死が批判されたことだろう、と思う。また、これに同調していようものなら社会的に抹殺されてしまっただろう。その影響であろうか、藤原岩市陸将の参議院選も落選に終わっている。だが、本書で紹介されている国民による「祖国防衛隊」構想なるものは、形を変えて予備自衛官や即応予備自衛官、予備自衛官補などの制度で実現しているようにも思える。三島氏の構想はどうしても非現実的というか、民間防衛、間接侵略に対する防衛を目的にするとしても、志操堅固な国民に武器を持たせる、という辺りがどうも上手くクリアー出来ないと思うのだ。そもそも、予算が無いとなかなか維持できるものではない。そこが現在の予備自衛官というシステムならなんとかなりそうでもある。三島氏が生きていたら大いに不満を言うことだろうけれども、現実的にはこの方が良いと思われる。

 既に広く知られている事なのだろうけれども、その全貌を詳しく読んだのはこれが初めてでやはり衝撃的だった。自分なりには三島氏はこの最期によって自分が「江戸時代の武士」になりたかったのだろう、そして江戸時代の武士j道に殉じる事によって日本に武士道、天皇中心の価値観を復活させよう、ということであったのだろう。この象徴的な死は日本人に向けての強烈なメッセージだった。ただ、当時の日本では到底受け容れられるものではなかったが。三島氏は対心理情報課程のゲリラ戦的な戦術に対して「弱者の戦術ではないか?」と武士道的な見地から疑問を呈していたという。それはそうであろうと思う。自分が思うにはこれは武士のやることではなくて”忍者”の任務だったからだ。武士道ではなく、忍者として、そしてその為の”正心”、”将智”を説けば良かったのではないか、と今の自分は思う。或いは陸軍中野学校における「謀略は誠なり」なのだと。そこで三島氏が、謀略戦ではなくて正規戦の研修を積みたい、訓練を受けたい、ということであればあのような最期を選ばなかったかも・・・知れないなんていうのは間違いだろうか。やっぱり割腹を選んでしまうのだろうか。

 三島氏の行為は余りにも過激であって到底共感出来ないが、70年前後の騒擾状態の中で一際鋭く光っている事件ではある。未遂に終わったから良かったものの、これはクーデター未遂事件だった、というのはやはり衝撃的である。




序章 三十年目に届けられた遺言状
第一章 ノーベル文学賞を捨てた男
第二章 影の軍隊
第三章 武士道と不正規軍
第四章 自衛隊調査学校「青桐グループ」
第五章 横の連携から「楯の会」へ
第六章 自衛隊に突きつけた刃
終章 誰が三島を殺したのか


関連図書
日米秘密情報機関』 平城弘通
自衛隊の情報戦』 塚本勝一
自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』 松本重夫 
自衛隊秘密諜報機関』 阿尾博政
自衛隊「影の部隊」』 山本舜勝




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