多利気

読む気功 混迷の時代を生き抜くためのアイテムをお持ちですか


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0 はじめに

 

 気功のことをまったく知らないあなた。

 

大丈夫です。

 

このサイトに載っている書を読むだけで、あなたも気功の達人になれます。

 

ゆっくり読めば2時間ぐらいかかるでしょう。

映画一本分の時間です。

 

でも、一度「多利気」を知ると一生使えるあなたのアイテムになります。

 

泳ぎを覚えたり自転車に乗るコツをつかんだりするのと同じです。

 

気楽に読み始めてください。

 

2時間経過後のあなたはどんなアイテムを手に入れているのでしょう。

 

 

最初に私と気功との出会いについて話します。

 

私が気功に興味を感じたのは30年ちかく前のことです。

それまでは催眠術を学んでいました。

 

同時に数人を催眠に導いたり、催眠状態で相手の意識を過去にもどしたり未来を見せたりしていました。

 

だけど、それはそんなこともできるというだけで、だからどうなるということでもないと感じたのです。

 

たとえば病に関していえば催眠術は胃腸病や一部の神経的な病には効果があるのですがいわゆる一般的な健康を維持するのに有効であるとは思えません。

普遍的でないと思えるのです。

 

そのような催眠術の限界を感じていたころ気功に出会いました。

 

そのころ中国といえば日本ではほとんど政治的な話題が中心でした。

 

気功という言葉さえも私は知りませんでした。

 

普通、催眠術は言葉の暗示によるものだと言われています。しかし単に暗示だけではないように私には感じるのです。

 

言葉だけでなく何かが相手に伝わっていると感じるのです。

 

初めて気功の実技を見たとき、その何かが「気」であると直感しました。

 

そして、言葉の暗示によらない気功が技術として催眠術よりはるかに優れていると思ったのです。

 

しかし、それから30年を経て今、私は再び言葉を用いてあなたを新しい気功の世界に案内していきたいと思っています。

 

 

 

 

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1 「気の海」を知る

 

考えてみてください。この世のすべてを。

 

この世にあるもの。

 

美しい風景、地球、銀河、宇宙、私たちの属する宇宙の外の存在。

 

この世で起きたすべての出来事。

 

宇宙の始まり、地球の誕生、すべての生き物の進化。人類の歴史、政治の変化、経済の動き、あなたの日々の暮らし。

 

まだ人類が知らない過去の現象。

 

これから起こるであろうと考えられる、ありとあらゆる出来事。

今は予想もつかない未来の現象。

 

あるかどうかわからない、あの世と呼んでいる天国、極楽、あるいは地獄。

 

言葉で言いあらわすことのできるすべてのもの。

言葉では、まだ表現されないもの。

 

とにかく、あなたが思いつく限りのこの世のすべてを。

 

そして、考えてください。

 

この世のすべては雑多な物や現象の集まりに見えるのだが、いったい何で構成されているのだろうかと。

 

つきつめれば、ひとつの存在から成り立っていると考えることもできるのではないだろうかと。

 

アインシュタインは、質量とエネルギーをイコールで結びました。

 

有名なE = m c2の式です。 

        

質量とエネルギーは、形や状態は違うのですが、同じ素から成り立っているのです。

 

その同じ素は何なのか、今の科学ではわかっていません。

わかっていないものを断定するのは科学的な態度ではないですが、その同じ素を「気」だと思ってください。

 

同様に科学的ではないのですが、この世のすべては「気」から成り立っているのだと思ってください。

 

古来中国では、この世の始まりに気が生じ、その気が変化して宇宙が誕生したと言い伝えられているそうです。

 

気がすべての素だと考えられているのです。

 

そう思うと、この世のすべてはひとつの「気の海」に見えます。

 

もし、ここまで読んで、この世のすべてがどうしても「気の海」に見えなければ、たとえば、あなたが「この世のすべては愛で成り立っているのだ」と考えるなら、「気の海」を「愛の海」と読みかえて以降を読み続けてください。

 

「気の海」はこの世のすべてですから、この世にひとつしか存在しません。

もしも、この世のすべて以外に存在するものがあれば、それが存在した瞬間にこの世のすべてに含まれてしまうからです。

 

今、あなたが一番好きな人。

 

そんな人がいれば、その人がこの世のすべてについて、どんなことを考えるか想像してみてください。

 

一番好きな人がいなければ、適当な思いつく人の頭の中を想像してみてください。

 

その人が考えるこの世のすべて、すなわち「気の海」は、あなたの考える「気の海」とまったく同じものだと言うことができるでしょうか。

 

残念ながら違うと、答えざるをえないでしょう。

 

そう答えたあなたには、他人の考える現実とあなた自身の現実が違うということがきちんと識別できる能力があります。

 

この違いは、たとえば、あなたが動物園の象の鼻だけを見て「象って、ホースのようだ」と考え、あの人は象の足だけを見て「象って、電信柱のようだ」と考えた。

 

そんな捉え方や知識による違いとは異なると思ってください。

 

捉え方や知識の違いは「話せば分かる」説明すれば理解してもらえ、同じ認識になるので違いはなくなることもあるのですが、何時間教え諭しても直らない、何年一緒に暮らしていようとも好みは違うといったような、人ってそれぞれだなと認識せざるを得ない、人の指紋が異なるような違いだと思ってください。

 

個性としか言いようのない、優劣の存在しない違いです。

 

そうすると全部というのはひとつの概念なので「気の海」はこの世にひとつしか存在しないはずなのに、人によって「気の海」が違っていることに気がつきます。

 

人の数だけ、異なる多数の「気の海」があることになってしまうのです。

 

 

ここで、再び「気の海」を考えてください。

 

あなたの考えるこの世のすべて。

 

それは、あなたの考えの中にあるのです。

 

あなたの考え以外に、この世のすべてはありえないのです。

 

あなたが「自分の心では、考えることもできないこの世のすべて」と考えても、その考えそのものがあなたの考えの中にあるのです。

 

「気の海」はこの世のすべてですから、あなたの考えの外にもあるはずですが、あなたの考える「気の海」は、あなたの考えから一歩も外に出ることはできないのです。

 

「気の海」と、あなたの考える「気の海」は、あっちがなければこっちもないという関係、相対的に存在しているのだと考えましょう。

 

そう考えると「気の海」はこの世のすべてですから、この世にはひとつしかないのだけれど、人が考える「気の海」は人の数だけあるということが理解できます。

 

 

ここで、個々人が考える「気の海」を「我(われ)」と呼ぶことにしましょう。

 

「我」は我々の考えの中にだけ存在するのですが、我々から観ると「気の海」とは相対的に存在し、よく似ている相似的な関係にもなります。

 

 

つぎに「気の海」にある法則について考えてみましょう。

 

「この世には、法則なんて何もない。すべてはランダムだ」と考えても「すべてはランダムだ」という法則ができてしまうように「気の海」の動きには一定の法則があると思われます。

 

たとえば、ある犬が西を向いた。

それによって犬の尾が東を向いた。

 

これは、誰の目にもわかりやすい法則です。

 

南米で蝶が余分に羽をはばたいた。

それによって、本来、中国に行くはずだった台風が日本に到来した。

 

これは、ちょっとわかりづらい法則です。

まあ、そんなこともあるかもしれないといった感じです。

 

一匹の蜘蛛の命を助けたことがある。

それによって極楽に行った。

 

これは法則と呼べるでしょうか。

 

「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

 

これはどうでしょう。

 

この世の法則には地球が太陽の周りを回る周期のように理屈で我々にわかる場合と、理屈だけでは我々にはよくわからない場合があると考えることができます。

 

「気の海」の法則は、あなたにはまったく理解できないことがよくあります。

 

この世は理不尽で、デタラメなことだらけだと感じることが多いのです。

 

神も仏もあるものかと思ってしまうようなことが法則として起きているのです。

 

これに比べ「我」には、あなたが漠然とでも納得できる法則しか存在しないから、そのような現象をこの世には法則が成り立たないものもあるのだと思ってしまうのです。

 

「気の海」と「我」との相対的で相似的な関係に反するように見えますが、これはあなたが「なるほど」と思わなければ法則として認識できないだけのことなのです。

 

我々には納得できないことが多いが、この世のすべては「気の海」の法則で生じ動いているのだと理解してください。

 

この法則によって動く「気の海」の働きを「気の海」の必然と呼びましょう。

 

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 2 人生を考える

 

この世のすべては「気の海」です。

 

物体も空間もエネルギーも長い時間も、あなたの隣で起きている小さな出来事も、あなたの思考も感情も、すべて気で成り立っています。

 

どこからあなたは来たのかと問われたならば、自分の人生というドラマを演じるために「気の海」から来たと答えましょう。

 

そして、これからどこに行くのかと問われたならば、人生を終えることによって再び「気の海」に帰るのだと答えるのです。

 

すべては「気の海」の中の出来事なのですが、「気の海」から来たと、「気の海」から離れている形で表現するのは、前章で述べたように「気の海」と相対する形で我々の考える「気の海」すなわち「我」があるからです。

 

あなたの人生を認識するのはあなたの「我」しかありえません。

 

あなたは、あなたが自分の命より愛している人に対しても、あなたの人生を託すことはできません。

 

教祖、尊師、グル、その他どんな偉い人にも、あなたの人生を任せ委ねることはできません。

どんなに愛しいわが子でもあなたの人生を託すことはできないのです。

 

人生というドラマの主役は、常にあなたしかいません。

 

もしも、あなたの人生がとんでもない境遇に陥ったとしても、主役を降りて脇役に甘んじるなんて芸当はできません。

あなたは、自分の置かれた境遇のなかで、あなたにしかできない主役を演じなければならないのです。

 

それは、世界のほとんどの人があなたの人生を不幸だと決め付けたとしても、ひとりあなたが幸せを感じれば、あなたの人生は幸福であるということを意味します。

 

他人から観て悲劇であろうと喜劇であろうと、あなただけの考えで、あなたの人生はすばらしい人生になるのです。

 

人生を楽に過ごすことができて癒されている状態のみが幸福だとは限りません。

 

あなた自身が苦労をしていて辛くても、人生を充実して過ごしていると感じ、幸せと思い満足を得る場合もあるでしょう。

 

あなたは「我」を世界のすべてと感じざるを得ないのですが、それだから、どんな境遇にあっても幸せを見出すことができることになるのです。

 

だから「こうでなければ幸せになれない」とか「あのようになってしまったら幸せになれない」といった考えは、自分の心や行動を縛り付け不自由にさせるだけの意味しかありません。

 

 

人生の幸福や満足は、あなたしか創れません。

しかし、あなたの人生のシナリオは誰が創っているのでしょう。

 

人生のシナリオは、生まれる以前からあらかじめ決まっていると考えることができます。

 

この世のすべてである「気の海」には当然、未来の時も既に存在しているからです。

 

あなたが「運命が決まっているなんてとんでもない。自分の人生は、自分の力で切り開く」と言っても、そのセリフは「気の海」のシナリオに既に書かれているのです。

 

しかし、将来どのように展開するのかは、「気の海」のみぞ知るで、「人は必ず、いつか死ぬ」ということ以外、人間である我々には確たる未来はわかりません。

 

だから、あなたは明日のことで思い煩う必要はありません。

 

明日のことはわからないことなのです。

わからないことで悩んでも仕方ありません。

 

心配は不安な明日への対策ができていないと思うことから生じるのですが、それは今のあなたには対策がとれないことを意味します。

もし対策がとれるのなら、心配して悩む前に今のあなたが対処して安心すればいいだけです。

 

心配して悩むということは、明らかに、自分には不可能なことを可能だと勘違いしていることから生じるのです。

 

だから、心配しても事態が好転することは決してありません。

 

心配して悩むことは、まったく意味のない無駄なことだと理解してください。

 

しかし、どうしても未来への不安が残る場合はどうすればいいのでしょう。

 

こんな時こそ「気の海」に頼るのです。

 

こんな時のために「気の海」の存在を知る必要があるのです。

 

明日のことは、明日のことを知っている「気の海」にあなたの代わりに思い悩んでもらえばいいのです。

 

あなたが今なすことは、今日をいかに生きるかを考えることだけで充分なのです。

 

 

「気の海」に、あなたの未来を任せ委ねるのは、将来こうなって欲しいとか、こうなっては困るとか、今のあなたが考える希望の成就を願うことではありません。

 

未来を見ることのできない我々は、どうしても現在感じている欲求しか願っていないからです。

 

たとえば、あなたの願いがかなって宝くじに当たって大喜びした。

しかし、それからは働くことがバカらしくなり性格破綻者になってしまった。または、得たお金のせいで人間関係がうまくいかなくなって、結局、不幸な人生を送ることになってしまった。

そんなストーリー展開が待ち受けているとしても、あなたは宝くじを買った時点では、大当たりすることを願ってしまうでしょう。

 

自分が願って、自分を不幸にしようとしている場合もあるのです。

 

逆に、困ると感じた出来事が起きて、それが結果的にあなたを幸せにすることもあるでしょう。

 

任せ委ねるときにあなたが願うという思いは、今の願いがかなわない場合の将来に不満を感じるための種を撒いているだけの意味しかないのです。

 

だから、任せ委ねるときの意識は、自分の願望は忘れ、ただ文字通り「気の海」に任せ委ねるという意識になります。

 

「気の海」に任せ委ねるのは、そう意識するだけで充分なのですが、リアルに感じるのが難しい場合には、次のような気功らしい体感方法があります。

 

あなたの頭の頂上から足の裏まで電流が通るように「気の海」の気が流れ貫いてあなたを浄化していくという感じのイメージで「気の海」に任せ委ねてください。

 

そして任せ委ねたイメージができあがったらフッとため息をついて終わりにしてください。

 

 

「気の海」によって既に未来が決まっているのなら、すべてを「気の海」に任せてしまえばよさそうですが、できないことだけを「気の海」に任せ委ねましょう。

 

あなたにできることをあなたが行うことはあなたの喜びになるからです。

特にできないと思っていたことができるようになったときの達成感や充実感を「我」はとても好きなようです。

 

すべてを「気の海」に任せてしまうと、人生の大半の楽しさを味わうことができなくなってしまう可能性があります。

 

逆に言えば、行って楽しくない行為は、あなたができないことをやろうとしているのか、する必要のないことを行っている場合があります。

 

いやだと感じるときは、それを行うことが、あなたの人生にどんな意味があるのかを、もう一度見直してみてください。

 

 

あなたが人生を終えるときに、あなたの考えるこの世のすべて、すなわち「我」は「気の海」に変わります。

それは消滅ではありません。

あなたの認識の変化です。

なぜなら「気の海」は、この世のすべてであるがゆえに増減はありえないからです。

 

死はあなたを、この世のすべてである「気の海」そのものに帰してくれるのです。

 

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 3 生まれるに対処する

 

誰一人、自分で望んで生まれた人はいません。

 

生まれることが嫌だったのに、意に反して、この世に生を受けてしまった人もいないはずです。

 

あなたが祝福されて生まれてきた。

 

それは、あなたの周りにいた人々の思いです。

あなたの好みでそうなったのではありません。

 

同様に、嫌われて生まれてしまっても、あなたの問題ではありません。

 

生まれるということは、良いも悪いも、好きも嫌いもない、本人にとって思い通りにならない出来事なのです。

 

あなたの誕生という出来事は「気の海」が「気の海」の必然によって、あなたをこの世に送りだしたことによって生じたのです。

 

「気の海」は、ただ単に、あなたをこの世に送り出しただけではありません。

 

すばらしいプレゼントをあなたに与えています。

 

生まれたときに、我々は、ひとりひとり「我」の種子を持たされて生まれているのです。

「銀の匙をくわえて生まれる」なんて、けちな話ではありません。

 

「我」は、あなたにとっては「気の海」そのものです。

「気の海」は、この世のすべてを誕生とともにあなたに与えたのです。

 

あなたは、ひとりだけになっても、この世のすべてに対峙できる認識を持つことができます。

 

「我」があるから、どんな迫害に出会っても「それでも、地球は回っている」と言うことができるのです。

 

たった一人のオリジナルなあなたの人生をこの世に生み出すために「気の海」は存在しているのだと言っても過言ではありません。

 

そして、気づいて下さい。

 

あなたの周りにいるすべての人は、あなたと同様に「気の海」の祝福を受けて誕生しているのです。

 

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  4 老いに対処する

 

老いることを嫌がる人がいます。

 

そんな人は、ウーンと若い赤ん坊になればいいのです。

 

赤ん坊には、しなければならないことは、ほとんどありません。

できることだけをすればいいのです。

これは、いい生きかたに見えます。

赤ん坊のように生きたいなと思いませんか。

老いると赤子に戻るというではありませんか。

でも、それではつまらないと考えた人は思慮の深い人です。

 

 人生には楽しみが必要だと気づいている人です。

 

 赤ん坊に人生の楽しみがあるのでしょうか。

たとえば、赤ん坊が飲む・打つ・買う、をしたいと思っても、なかなか実現しないでしょう。

赤ん坊にはしたいと思っても、できないことが多いのです。

 

でも、赤ん坊が酒を飲みたいとか、ギャンブルを楽しみたいとか、思うでしょうか。

 

そうです。赤ん坊はできないことは、したいと思わないのです。

だから、赤ん坊は自由に、屈託なく、生きているのです。

 

いざれるようになってハイハイをし、歩けるようになってアンヨをするのです。

 

「気の海」の必然によって、できるようになって、したいと思うのです。

 

幸い、年をとるともっと若くなるのと同じ現象になります。

子供が時をさかのぼって赤ん坊になるように、できないことが多くなります。

そうなれば、どうしようもなく、できることだけをすればよくなります。

 

誰もお年寄りには期待してないでしょうから、誰かのためにしなければならないことはなくなります。自分のためだけを考えていると思われてもかまいません。

 

つまり、年をとることによって、多くのことがあなた一人で納得すればすむ問題になったのです。

 

年をとることによって、赤ん坊と同様に、自由に屈託のない生き方ができる至福の時間を得ることができるのです。

 

「気の海」の必然によって、できなくなったことは、したいと思わない。

 

これが気功らしい老い方になります。

 

 

他人に迷惑をかけるのが嫌で老いたくないと言う人がいます。

長く生きて老醜をさらしたくないと言う人がいます。

自分の意思で長生きするのが、よくないと言っているようです。

 

しかし、自分の意思で長生きできる人は誰もいません。

 

「気の海」の必然で長生きしているだけなのです。

 

 自殺という形は、一見、自分の意思で自分の生死を決定しているように見えますが、そう考えること、そう思うことはできても、「気の海」の必然がなければ死ぬことはできません。

それは、長生きしたいと考えたり思ったりしても「気の海」の必然がなければ長生きできないことと同じです。

 

老いることが、あなたの周りの人や、あなた自身に不愉快な思いをさせるかもしれません。

 

しかし、それは、あなたのせいではまったくありません。

 

「気の海」の必然に甘えてしまう老い方が、気功らしい老い方になります。

 

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 5 病気に対処する

 

病気になったら「しめた!」と思ってください。

 

あなたは、気功を体得する絶好のチャンスを得たのです。

 

多くの医者に当たってみた。

いいといわれる薬も飲んでみた。

ありとあらゆる健康法を試してみた。

それでも病気が治らない。

 

そんな人こそ、気功が愛でし人々です。

 

生まれてから一度も病気をしない健康な人が気功を習得することは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい。

 

だけど、気功を知ったからといって安堵しないでください。

 

あなたが気功を習得したからといって病気が治るとは限りません。

 

病気が治るかどうかは、あなたが気功をどれだけ習得したかで決まるのではなく、あなたの理解できない「気の海」の必然で決まるのです。

 

気功を学んでも理解できないような「気の海」の必然だから、あなたは病気になっているとも言えます。

 

こう言うと「だったら、気功をする意味なんてないじゃん」と答えたくなるでしょう。

 

だけど、だからこそ、気功を体得する意味があるのです。

あなたは、気功ですら直せない病気の存在を知るでしょう。

そして、直らない病気と共存する方法を考えざるを得ないでしょう。

 

この病気と共存する人生を生きていく。

つまり、病気のことは「気の海」に任せてしまう。

 

これこそ、病気に対処する気功的な態度なのです。

 

気功を極めたといって、医療技術や薬の世話にはならないと豪語する人がいます。

 

しかし、「気の海」の必然で病気になり目の前に特効薬や有効な治療法が提示されている場合があるかもしれません。

かたくなな態度は気功らしくない態度です。

 

 

ぐっすりと眠っている状態を想像してみてください。

 

あなたの身体は、あなたの考えの支配下には入っていません。

 

身体は「我」の部分になったり、「気の海」の部分になったりするのでしょうか。

 

あなたの考えによって、あなたの身体が動いたりするので勘違いしやすいのですが、あなたの身体は考える器官である脳を含めて「気の海」の領域なのです。

 

我考える、故に「我」あり、です。

 

あくまで「我」は考えの中にだけあるのです。

だから、身体は「我」の領域ではありません。

 

身体は、いわば、「気の海」からの借り物だと考えてください。

 

無償で借りているのですから多少の不都合があっても、本来、不平不満を言える立場ではありません。

 

この借り物は「我」と「気の海」の融合点です。

あなたと「気の海」が対話できるところです。

 

病気は、痛みや苦しみを伴うのですが、「気の海」が「我」に伝えている大切なメッセージと捉えることもできます。

 

 病気になったから大事な勉強や仕事ができなくなったのではなく、勉強や仕事から大事なあなたの身体を守るために「気の海」が病気という形で、あなたを養生させようとしているのかもしれません。

 

 病気になってできなくなったことは「気の海」が、今のあなたにするべきではないというメッセージを発しているのだと考えることもできます。

 

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 6 死に対処する

 

この世の法則・真実がわかれば悟ることができると言われています。

 

この世の法則・真実をわかるということ。

 

それは「我」の認識と「気の海」の法則が同じになり、この世の法則がすべて理解できて、まったく迷いがなくなる状態を意味するのでしょう。

 

しかし、そんな状態になるのは、普通の人間には一生かけて修行してもできないと思ったほうが賢明です。

 

悟ったという人が近くにいれば、すぐに信じないで、とりあえず、その人の向う脛を思いっきり蹴っ飛ばして様子を見てください。

 

生きている限り、「我」の認識と、この世そのものである「気の海」の法則は、どうしても異なるのです。

 

その違いを仏教では煩悩と呼ぶのでしょう。

 

我々は、夢や希望を持って「気の海」の法則を「我」の認識に合わせようとしたり、あるいは、諦めることによって「我」の認識を「気の海」の法則に合わせたりします。

 

そんな人間の働きそのものが、人生を営んでいるということなのです。

 

「気の海」の法則と「我」の認識が異なっていなければ、人間らしい営みができません。

 

人間として生きている意味がなくなってしまうのです。

 

適度な悩みや迷いは人として生きている証です。

喜怒哀楽とともに生きるのが人間ですから。

 

この世に生きている時間は限られています。悟ることは死後の楽しみに残しておきましょう。

 

死後、あなたは望んでいるかいないかに関わらず「気の海」と融合してしまいます。

 

あなた自身が「気の海」になったときに、生前のあなたに誕生、老化、病気、そして死を与えたこの世の法則、つまり「気の海」の必然が、簡単にすべて、あなたに理解できるようになるはずです。

 

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  7 「気の海」に生きる

 

混迷の時代です。

 

何が起きてもおかしくない時代です。

 

私たちの暮らしているこの社会は、我々には納得できない出来事で満ちています。

「どうして、わたしが、こんな目に」

 

反対に、罪のない人を災難にあわせる立場にあなたがなるかもしれません。

「まさか、わたしが、あんなことを」

 

すべては「気の海」の必然で生じるのですが、あなたが災難と感じる「気の海」の必然は「我」でこの世を量るあなたには理解できません。

 

だから、災難にあったり、あわせたりしたときには、怒ったり悲しんだりするより、あなたに人生の転機を教えるため「気の海」が用意した演出だと感じて対策を考えるのが、気功らしい態度になります。

 

このような事件に遭遇したときは、これまでの生き方や考え方を変えざるを得なくなります。

 

変えることによって、後から見れば、かえって良くなったと思う場合もあるのです。

しかし、今までの人生観を否定されてしまうので大きなダメージを受けます。

 

「気の海」を知っているあなたは、諦める(明らめる)ことによってダメージに対処することができます。

 

いいとか悪いとかの価値基準の問題から離れ、事件そのものを見据えて、自分で対処できる部分とできない部分を識別し、対処できない事件はあなたには理解できない「気の海」の必然によって生じたのだと諦めましょう。

 

あなたは、諦めることによって、これからの新しい人生観を構築することができるのです。

 

注意していただきたいのですが、諦めることは、自分の努力で身につけるものではありません。

諦めるという方法があることを知るだけで充分なのです。

 

もし、努力して諦めようとしても、どうしても諦めることができない問題であったなら、自分の力では諦めることはできないことだと身にしみてわかるでしょう。

 

結局、自分の力でできないことは諦める、つまり、「気の海」に任せ委ねるという方法しか残されていないことを意味するからです。

 

当然ですが、あえて災難にあったり、あわせたりして諦めを極めるための気功の練習や修行をする必要は、まったくありません。

 

あなたの思いのままにならないこと、できないことは「気の海」に、すべて任せてしまいましょう。

 

あなたは、あなたのできることに夢や希望を託し、人生の醍醐味を味わうために思いをめぐらせ力を尽くしましょう。

 

それが自由で、この世を楽しく生きる、あなたの人生の過ごし方になるのです。

 

 

「気の海」の法則がよく認識できない我々にとって、できることとできないことの識別はあなたが考えている以上に難しい問題です。

 

できないことをできることだと勘違いしたり、できることをできないことだと思い込んだりすることはよくあることです。

 

あなたと他人は異なるので「この人ができるから自分にもできるはずだ」「あの人にできないから自分にできるわけがない」と思っても意味のないことです。

 

最終的にはあなた自身が判断するしかないのですが、何か変だなと感じたら「気の海」に、そっと、聞いてみてください。

 

あなたがすることは、ふと思い立ったときに、自分の身体を「気の海」の一部だと感じてやること。

そして、「気の海」は、すべてという定義上、一部が全部でもあるので自分の身体を「気の海」そのものだと感じること。

そして、その感じに自分を委ね、あなたの願望を忘れて静かに耳を傾けること。

 

以上です。

 

「気の海」に任せ委ねる方法は、練習や修行を重ねて自力で気功の技術を習得する方法ではなく、「気の海」に任せ委ねると思うことだけで気功の技術を身につけてしまう他力の方法になります。

 

よって、この書を読むことで、練習をすることなく、あなたも気功の達人になれます。

 

この気功を体得することで、あなたは自分の力だけではとても手に入れることのできない多くの利益を、あなたが望むことなく得ることができるでしょう。

 

筆者は、この気功体得の方法を「多利気(たりき)」と呼びたいと思います。

 

 

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 8  ご質問にお答えします

 

質問1

 

前段で「サイトに載っている書を読むだけで、あなたも気功の達人になれます」と書かれていたので、気功という技術を身につけられるのかと期待していたら、結局「任せ委ねる‥」というのは、「身の回りの出来事、事象などの 全てをありのままに受け入れていく‥」といった「心のありかた」や「物事の受け止めかた」、「生き方」などのことで、ちょっと矛盾しているように感じました。

 

また、読むだけでどうして「気功の達人」になれるのか理解できません。

 

答え1

 

一般に気功を学ぶ場合は、非日常的な練習や訓練を重ねて自分の技術を高めていくという方法をとります。

自分にはできないと思っていたことができるようになることによって「心のありかた」「物事の受け止めかた」や「生き方」を徐々に変えていく方法です。

 

しかし、人間の能力の向上には限界があります。

自分の能力の限界を認めず超能力を求めたり、不老不死を目指したりすると人生の大半を費やしても満足できない結果に終わるでしょう。

 

達人とは、自分の限界が分かった人だと言えます。

いくら、気功を身につけてもできないことはできないのです。

そう気がついた時、達人は自分以外のものに「任せ委ねる」方法をとらざるを得なくなります。

 

「任せ委ねる」ことによって、それまで自分自身の力ではできなかったことが、できるようになるのです。

 

「任せ委ねる」勇気を持つことが達人の条件です。

 

換言すれば、達人のそれまでの努力は、結局、自分自身の力に頼るのは空しいと理解するためにあったのです。

だから「任せ委ねる」ことによって「心のありかた」「物事の受け止めかた」や「生き方」を変えていく方法は、努力や練習をしなくても気功の技術としては達人の域になります。

 

 

筆者は気功で病人を看ているときに「心のありかた」「物事の受け止めかた」や「生き方」などに関わらないで病気だけを治すことはできないことだと確信しました。

 

「心のありかた」「物事の受け止めかた」や「生き方」が原因の場合が多いのです。

 

逆に言えば、病気が治るのは「心のありかた」「生き方」が変わったからです。

 

しかし、病人は自分の力では「心のありかた」「生き方」を変えることはできません。

 

自分で変えることができないから病気になっているのです。

 

そうなら、他人である気功師が持てる技術を駆使して病気に対処すればいいように思えるのですが、自分自身で創らざるを得ない「心のありかた」「生き方」の問題ですから他人が関わるのは弊害が多く、無理があります。

 

やはり、本人が達人になるのが一番です。

 

「多利気」は自分が修行したり気功師に依って病気を治したりする方法ではなく、病人が「任せ委ねる」という方法で自分自身のドグマから離れ自分の力によらずに治癒能力を得るという技術です。

 

自分の力で気功の技術を高めて「心のありかた」「生き方」を変え病気を治すのだと思っている人から見ると「任せ委ねる」ことによって病気を治すという方法をとることが気功の技術を体得しているのだという「多利気」の考えは、ちょっと矛盾しているように感じるかもしれません。

 

しかし「任せ委ねる」のも身につけた気功の技術なのです。

 

人の持つ能力はそれぞれ異なりますから、気功のことをまったく知らない人でも、自分が気功の技術を知らないという自覚があって、だから「気の海」に任せるのだと思えば、その委ねるという技術は、気功の達人を自負する人に比べても遜色はないことになります。

 

達人を普通の人が大変だと思っていることを軽々とやってしまう人だと捉えてみます。

 

普通の人が大変だと思っている病気や老化や死を、他人にはどう見えるか知らないが、自分自身は「気の海」に任せることを知り、さりげなくやり過ごしていく人になれたと思えば達人になったと言えるでしょう。

 

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質問2

 

「気の海」という言葉が唐突に出てきて、ちょっと、ん‥?と思います。

 

また、個々人が考える「気の海」を「我」と呼びましょうと言うのも、ちょっと強引な言い回しではと感じます。

 

答え2

 

気功では人体の丹田・下腹あたりを「気の海」と呼ぶ場合があります。このあたりに小宇宙が宿るとされているのです。

 

「多利気」では小宇宙も大宇宙も同じですから、この世のすべてを「気の海」と呼ぶことにしたのです。

 

本文でも書いたように、もしこの世が「気」ではなく「愛」で成り立っていると考えるのであれば「愛の海」でも構いません。

 

「我(われ)」は考えの中にしかないので「我考える、故に我あり」のデカルトの言葉が一番適切だと思えたので、それを転用して呼ぶことにしました。

 

これもいい言葉だと筆者は思うのですが。

 

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質問3

 

「気」がエネルギーの一種だとすると、書を読むだけでエネルギー(気)が生まれ、気功を身につけることができるとは信じられないというのが感想です。

 

書を読む行為では、心への働きかけは可能でも、エネルギーが生まれたり、物理的に働きかけたりは不可能ではないか?

 

ちょっと違う感じだけど、本を読むだけでは、空腹やのどの渇きは満たされないし‥。

 

 答え3

 

科学的に一般認識となってないので好きなことが言えるのですが、「気」はすべての物質や事象の最小単位ですから、どんな形や出来事でもそれは気であると言えるのです。

 

今のところ、最小単位としての気をデータや理論体系いわゆる「情報」の形で捉えると非常に分かりやすいと思うのが筆者の実感です。

 

ヨハネ福音書の「初めに言葉があった」の言葉を情報と言い換えれば、天地創造の成り立ちをよく表していると感じるのです。

 

難解といわれている般若心経の「色即是空」の意味もこの世の物体や現象は気の最小単位である情報という実体の無い物ですべて構成されているという意味にとらえれば非常に分かりやすくなると思ってしまうほどです。

 

将来、情報をエネルギーや物質とイコールで結ぶ数式が発見されるかもしれません。

 

気功の練習・訓練・修行は、肉体を駆使することが多いのですが、身体を通して心に働きかけています。

 

心のかたくなな情報を、非日常的な行動で変化させているのです。

 

そう考えれば書を読んで情報を入力するのは練習・訓練・修行を通じて心に情報の入力をするのと差がないことになります。

 

気功の上達方法をパソコンの能力アップの方法で例えれば、エネルギーや物質的なハード面の変化ではなく、ソフト面の変化で性能をアップさせているという感じになります。

 

エネルギーや物質的な向上は比例的ですが、ソフト面での向上は、例えば、一行のプログラムの変化だけでも見違えるほど効果が得られる場合が多いのが特徴です。

 

だから書を読むというソフト面の変化だけでも効果が大になる可能性は充分あるのです。

 

「気」がエネルギーの一種だとしても書を読むだけで エネルギー(気)が生まれることがあります。

 

この書を文字の羅列と捉えるなら、同じ文字の羅列である一枚のラブレターを読むことによって、失恋したと思い悩んでいる人間のエネルギーを充実させ、空腹やのどの渇きを簡単に忘れさせることができるのはごく普通のことですよね。

 

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質問4

 

死後、あなたは望んでいるかいないかに関わらず「気の海」と融合してしまいます。

 

あなた自身が「気の海」になったときに、生前のあなたに誕生、老化、病気、そして死を与えたこの世の法則、つまり「気の海」の必然が、簡単にすべて、あなたに理解できるようになるはずです。

 

とありますが、死んで理解がどんな意味を持つのか分かりません。

 

答え4

 

ぐっすり眠っているあなたの側に目のくらむようなすばらしい宝石が置かれたとします。

でも、あなたはちっとも欲しがりはしません。

あたかもあなたは現世の欲望を超越したかのごとくです。

 

今度は、眠っているあなたの側に棘を立てた毛虫が寄ってきたとします。

しかし、あなたは少しの恐怖も感じていません。

あたかも恐怖にとらわれない不動の心を確立しているかのごとくです。

 

眠っているときのあなたの状態は、煩悩にとらわれない悟りの境地に達している状態に似ています。

 

眠っている時間は「我」にとって、どんないいことや危険な状態が起きても対処できない時間だと我々は知っています。

 

ほとんど意識していませんが、眠りに入るということは、状況のなすがままに任せ委ねる勇気と覚悟を我々に強いているのです。

 

この覚悟ができていないと、不眠で悩んだりする原因のひとつになるかもしれません。

 

眠りは悟りに似ているのですが、それは単にあなたが知覚していなかっただけで目が覚めるとたちどころに何らかの反応を示すはずです。

 

知覚しても、つまり目が覚めていても「我」の欲望や恐怖と無縁でいることができれば、それは悟っていると言えるでしょう。

 

悟りとは絶対的な心の安定を得るため「我」の存在を修行等によって意識から消し去り「気の海」そのものになり、「気の海」の法則をまったく正しいことだと思い込むことです。

 

つまり、21世紀になっても現実に起きている弱者への虐待事件や戦争、あなたにとってひどい災難と感じた出来事に遭遇しても、この世で起きたことはすべて「気の海」の必然で生じたことだから良しと思い切ることができるようになれることです。

 

覚醒している状態でそのように割り切ることができるのは普通の人にとっては、ほとんど不可能です。

 

逆に言えば、普通の人が悟っている状態になれるのは、ぐっすり眠っているときだけです。

 

そして、永遠の眠りである死こそ普通の人が常に悟っている状態なのです。

 

生きているうちに悟っていた人のみが死後も悟れるのではありません。

誰でも、死後は悟ってしまうのです。

 

だから、死者に対する我々の気持ちは悟っている人に対しての尊敬がふさわしいでしょう。

 

悟っていれば迷ったり人に害を与えようと考えたりするはずがありませんから、死者の魂を安らかにしようとする追善供養や、死者のたたりを恐れる気持ちは、死者に対しての冒涜になってしまう可能性があります。

 

さて、死んで悟ることがどんな意味を持つのかという質問ですが、筆者はあいにく死んだことも悟ったこともないので答えることができません。

 

しかし、死ねば悟ると考えることが生きている我々にとってどんな意味があるかということなら答えることができそうです。

 

つまり、死ねば誰でも悟ることができるのならあえて急いで生きているうちに悟る必要がないのです。

 

なるほど、悟れば死を迎えるにあたって悠然と受け止める覚悟ができるのかもしれません。

死は「気の海」から出た自分が再び「気の海」に帰るだけのことですから。

 

しかし、理屈では分かっていても、それだけで死の恐怖から逃れることは我々にはできそうにありません。

 

その時は「気の海」に頼るのです。

 

自分の力で死に立ち向かわなければいけないと思わなくて良いのです。

死を目前にして自分ひとりでは対処できないと自覚したときこそ、「気の海」に自分の死を任せ委ねることによって、我々は少しでも安らぐことができるのです。

 

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質問5 

 

「災難にあったり、あわせたりしたときには、怒ったり悲しんだりするより、あなたに人生の転機を教えるため「気の海」が用意した演出だと感じて対策を考えるのが、気功らしい態度になります・・・。」

 

すべては「気の海」の必然ゆえ対策も既に決まっているはずです。

 

諦めるかどうかも、新しい人生観を構築するかどうかも「気の海」の必然で決まっているのにどうして対策をとったり人生観を構築したりしなければいけないのですか。

 

答え5

 

本文では、未来が既に決定されていることについて、この世のすべてである「気の海」には当然、未来の時も既に存在しているからと書きましたが、過去の「気の海」の必然で現在があり、現代の「気の海」の必然で未来は既に決定されていると考えることもできます。

 

もし、未来は既に「気の海」の必然で決まっているのなら、そうと分かっているのにどうして自分で対策をとったりする必要があるのかという質問ですね。

 

あなたはカップラーメンを食べるとき、いきなりボリボリ乾麺をかじりながらお湯を飲むというような食べ方はしないでしょう。

 

食べた後という未来では、どっちみち腹に入ってしまうという同じ結果になるから、何もしないで手間を省いて食べればいいと言われると、なるほどそうだと思えるのですが、そんな食べ方はおいしくないと知っているからです。

 

お湯を注いで3分待つのが楽しみなように、未来が既に決まっていても、今幸せを求めて模索しながら生きることが人生の醍醐味なのです。

 

ところが、ひどく空腹なときに目の前にカップラーメンがあるのにお湯がないという状況ではどうでしょう。

 

その時はどっちみち腹に入ってしまうのだという理屈が、大変よく納得できる意見だと思えるでしょう。

 

乾麺をかじりながら水を飲んでも結構おいしく感じるかもしれません。空腹にまさるごちそうはありませんから。

 

「多利気」はいわば、人生というカップラーメンをおいしく食べるテクニック(技術)です。

 

自分ができることで、したいことは、結果は既に決まっているとわかっていても、思う存分自分の力を尽くし努力しましょう。

それが、あなたの喜びになるのです。

 

そして、その喜びがあらかじめ決められていたことに、あなたは感謝するでしょう。

 

自分ができないこと、したくないことは「気の海」に任せてしまいなさい。

こうすれば将来楽になるとか、ああすれば将来悔いが残らないからとか思って、今のあなたができないことや嫌なことを行って苦労することはないですよ。

結果は既に決まっていることなのだから。

 

そう考えることによって、今苦労しないで済むことを、あなたは感謝するでしょう。

 

「気の海」を知っていると、そんな虫のいい生き方をすることもできます。

 

未来が既に決められていると自覚している生き方は、いつかは覚める夢と気づいて夢を見ている感じに似ています。

 

楽しい夢を見ているときはその夢を楽しみ、つらい夢を見ているときは、これは夢だからと思うことで苦しみを軽減したり無くしたりすることができるのです。

 

未来が既に決まっているのなら、自分が選択したと思っても、その思いすらあらかじめ定まっていることだと感じて自分が対策をとることに意味が見出せないという考え方もあります。

 

結局、どんな人間も死んでしまうのだから、何をしたとしても意味のないことだと感じてしまう生き方に似ています。

 

だけど、定まった未来がつまらないと感じるのなら、すでに書かれた小説や映画やシナリオのある舞台がちっとも楽しめないことになってしまいます。

 

そんな考えの生き方は、おいしい人生の過ごし方ではありません。

 

もっとも、どんな生き方も「気の海」の必然で、そんな生き方をするようになっているのですが。

 

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質問6

 

身体に聞くという方法を具体的に教えてください。

 

答え6

 

たとえば、あなたが眠っているときに空を飛べた夢を見たとします。

 

しかし、目が覚めてから自分が飛べるようになったと感じて思い切って屋上から飛び降りるようなことはしないでしょう。

 

夢は現実ではないと知っているからです。

 

だけど、夢を夢と認識しないときは、そんな愚を犯してしまう恐れがあります。

非日常的な心身を苦しめる修行の結果、暗示や催眠によって幻覚を見るような場合です。

 

暗示や催眠は誰にでも起こりうる現象ですが、それをよくあることだと認識しないと、自分が努力した結果の神秘体験や神の啓示だと勘違いしてしまうことがあり得るのです。

 

「多利気」は、日常的な考えや行動で大きな効果を得る方法です。

 

身体に聞くという方法も、頭で考えるのではなく、身体で感じるという姿勢になればいいのです。

 

大自然の中に身を置いて自分の考えから離れるというのもいいのですが一番身近な大自然である自分の身体に聞くのです。

 

いわゆる「胸に手を当てて思う」という感じで行えばいいのです。

電車で座っているときや風呂に入っているとき体に問いかけてみてください。

 

筆者は時々、足の裏や下腹で人生を感じてみるという時間を持ったりしています。

 

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質問7

 

「気の海」は、すべてという定義上、一部が全部でもあると書いていますが詳しく説明してください。

 

答え7

 

概念のおもしろいところは、概念ができあがってしまうと、その概念にあてはまる個々のものが、すべてその概念で捉えられてしまうことです。

 

たとえば、ペットというのはひとつの概念です。

 

隣のインコのピーコも家で飼っている犬のスギマルもペットにあてはまります。

 

犬のスギマルは小鳥のピーコとは似ても似付かないから小鳥のピーコがペットであるなら、スギマルがペットであるはずがないと思ってみても、どうしようもなくピーコと同じペットになってしまうのが概念なのです。

 

だから、この世のすべてである「気の海」という概念ができあがると、あなたの認識する物や出来事はこの世のすべての一部になります。

 

砂漠の一粒の砂も巨大なピラミッドと同じすべての一部です。

 

そして、すべての一部もすべての全部も同じすべてですから、一部が全部になるのです。

 

人が死んで「気の海」と融合すると、その人はあなたの周りの物や出来事と同じになります。

 

愛しい人を亡くしても、あなたはこの世に取り残されたわけではありません。

 

空の雲や星、海辺の波しぶき、湖面の小波、山間の木漏れ日、道端の小さな花にもあなたは簡単にその人の気配を感じることができます。

 

文字通り草葉の陰から「気の海」になった亡き人は、あなたをやさしく見守っていると感じても、なんら不自然ではないでしょう。

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質問8

 

「この気功を体得することで、あなたは、自分の力だけでは、とても手に入れることのできない多くの利益を、あなたが望むことなく得ることができるでしょう。」の中に書いてある利益とは、世間一般にいう利益のように思えます。

 

また、自分が「気の海」の一部であり「気の海」の必然で動いていることを認識するということが利益なのだとも言っているようにも思えます。

 

表面的には前者の匂いが強いですがどちらですか。

 

答え8

 

世間一般の利益のことです。

 

でも世間一般にいう利益とはがどんなものでしょう。

普通本人にとって喜ばしいことを利益といいます。

 

だから腹いっぱいの人にいくらおいしいものを提供しても本人には利益になりません。

 

誰もが価値があると思っているお金でも、自分のお金を減らす慈善事業を喜んでしている人もいます。

 

だから世間一般の利益と言っても人によって違うのです。

 

だけど、普通、人は利益を得ると感謝しますよね。

思わず出てくる「ありがとう」です。

 

だから、感謝の気持ちが思わず出てしまうような状態をその人にとっての利益と言っていいでしょう。

 

「気の海」に任せ委ねていると、この「ありがとう」がたくさんでてくるのです。

 

だって、自分はなにもしないで任せっきりで、結果が良ければ「ありがとう」でしょう。

悪くても、今の自分がその状態を悪いと感じているだけで、将来のよいことの布石かもしれませんから悪いとは思えない。

第一、自分は何もしてないのだから、したとしても、できなかったことなのだから文句の言いようもないでしょう。

 

したがって、利益たくさんってことになるのです。

 

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質問8―2

 

前の回答の有難うは何に対して、誰に対しての有難うでしょう。

 

詐欺を働いて得した人は、騙されてくれて有難たいと感じたとして、騙されてくれた人に対しての有難うでしょうか、それとも神様有難うでしょうか。感謝は誰に対してでしょう。

 

いずれにせよ、煩悩の世界での利益に対して、煩悩の世界での有難うですね。

 

煩悩の土俵で考えると、結果がよければ有難う(利益)、悪ければ(文句の言いようがなくとも)面白くない(不利益)、どちらが大きいかで、損益計算書の損益が決まる、ということになるのでは。

 

答え8―2

 

当然、利益は現在、我々のおかれている煩悩の世界でのことです。

 

煩悩がなく悟ってしまえば、利益なんて、そもそも何の意味もありません。

 

神様を信じている人にとってはありがとうの感謝の相手は当然神様が本来の形でしょう。

 

もし、「気の海」を認識していれば、そんな機会を与えてくれた「気の海」に対してになるでしょう。

 

だけど感謝の気持ちは、お返しをしなければならないという義務感とは違うのですから誰に対してでもいいのです。

 

たとえば、おいしいステーキを食べて感謝の気持ちが出てきたとき感謝の相手は料理をした人でも、おいしい牛を育てた牧場の人でも肉を提供してくれた牛に対してでもいいのです。

 

感謝の気持ちさえあればそれが相手に伝わらなくたって充分自分の利益になるのが感謝のすばらしい利点です。

 

詐欺の犯人に感謝の気持ちがあれば騙されてくれた人に対してでもいいでしょう。

とにかく本人が利益を得られたときに「ありがとう」の気持ちが出てくると思います。

 

しかし、詐欺の場合、本人は詐欺を働いた、すなわち犯罪というリスクをとったのですから、自分の危険に見合った当然の対価だと感じるでしょう。

 

そこには感謝の気持ちは生じないと思います。つまり、利益にはならないのです。

 

宝くじを買った例でたとえてみれば、千円投資して1億円が当たれば、思いのほか対価が多いことになりますから感謝の気持ちもわいてきて利益になると思います。

ところが、外れた場合は、千円損したことになるので面白くない(不利益)になるので、結局、宝くじの当たり外れで感謝するか損をしたと感じるかのどちらかになります。

 

「気の海」に任せ委ねた場合、賽銭も要りませんから投資していません。

 

だから、任せ委ねて、いい結果がでると感謝の気持ちがわいて利益になります。

 

ところが、悪い結果がでても損をしたと思いようがないのです。

 

リスクをとっていないし努力もしていない、つまり、宝くじを買っていない状態です。それなのに当たらない、悪い結果が出たと腹をたてたとすれば、それは肥大な欲望にとらわれ振り回されて現実的でないだけです。

 

欲望に振り回され現実的でないと常に損ばかりすることになります。

 

現実的なあなたは、そもそも自分の努力ではどうしようもないことを「気の海」に任せ委ねたのですから、もし、任せ委ねなかった場合はと考えても仕方ないと思うでしょう。

だから損をしていないのです。

 

「気の海」に任せ委ねることを知らないと、不安な未来のことは自分自身が心配せざるを得ません。

 

それは、まったく無駄なことなのですが、本人は悩んだり心配をしたり不安を感じたりすることを自分が努力していると思ってしまいがちです。

 

だから、結果がいいと、自分の努力のせいだと思い感謝の気持ちはさほどわきません。

利益が少ないのです。

 

結果が悪いと、自分の努力が実らなかったと思い、不当に面白くないと感じて損をしてしまいます。

 

ところが「気の海」に任せ委ねることを知れば、感謝の気持ちが増え「我」の土俵の損益計算書から益が増えて、損が極端に減ってしまうことになるのです。

 

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質問9

 

 私にとっては「気の海」を「我」が認識しても、つまらないことで悩み、頭痛がすると世間が少し暗くなるのは変わりません。

 

 これは本当に「気の海」を認識していないからだとも言うことはできます。

「気の海」を認識することと、煩悩から解放されることは別物とも言えます。

 

「気の海」は「我」が作った煩悩の一つの夢、夢も煩悩、煩悩があるというのも煩悩かも・・・・・とだんだん深みにはまってしまうのですが。

 

答え9

 

 我々が煩悩から逃れられないのは「我」があるからです。

 

だけど、「我」を消して「気の海」と同じにしてしまうと、死人と同様になってしまいます。

 

だから、この世に生きている限り、煩悩から逃れられないという自分の存在を認めるしかないし、認めるべきだと思います。

 

「気の海」を「我」が認識しても、つまらないことで悩み、頭痛がすると世間が少し暗くなるのはあなたの現状です。

しかし、これはあなたが本当に「気の海」を認識していないからではありません。

むしろ「気の海」を認識しているから、自分とはそういう存在だと認めることができるのです。

 

もし、「多利気」を知らないと、悩みを抱えた自分の弱さを認めることは自分を貶めることになるし、自分の力で克服しないと弱いままでは不安です。

 

だから、現状に目を瞑り必要以上に自分を強く見せたくなるでしょう。

 

あなたが自分を弱いと素直に認めることができるのは「気の海」を認識できて気功の達人の域に近づいているからです。

 

「多利気」を知っていると、自分は弱いという現状のままで安心できます。私の人生は悩みの尽きない人生で煩悩から逃れることは自分の力ではとても不可能だと、自信を持って言えるのです。

 

そして、不可能なことに今のあなたが関わってもしかたないから、そんな現状を「気の海」にそっくり任せ委ね、あなたは明るく生きればいいのです。

 

自分がどうしようもない存在だと感じたら、頭の頂上から足の裏まで電流が通るように「気の海」の気が流れ貫いてあなたを浄化していくというイメージで「気の海」に、どうしようもないあなたを任せ委ねてください。

 

そしてイメージができあがったらフッとため息をついて終わりにしてください。

 

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