西北学塾(蒙古司政官要員養成所)

 

 昭和15年3月森憲二は満蒙から華北・華中へ旅立った。包頭を経て、五原へ飛んだ。

ちょうど国民政府正規軍傅作義の大軍が、五原奪還を目指して猛攻を開始した。間一

髪の差で離陸したのであったが、五原に進出した桑原中佐以下特務機関員は全滅した。

 昭和17年8月始め、靖亜寮森憲二宛、召集令状なる赤紙が届けられた。当時31歳の

彼は、姫路111部隊の第一期の検閲後、ソ満国境の佳木斯の鉄第646部隊に入隊した。

 駐蒙軍調査班長矢野光二中佐は、ハイラル特務機関付に転じ、靖亜寮生みの親とも

いうべき人であったから、森憲二を旅団長長勇少将に引き合わせようと努めた。長少将

は十月事件に参画した一人であったから、血盟団事件の森憲二を、同志と考えていた

ようである。陸軍二等兵と旅団長閣下、森は間もなく一等兵に進級して、ハルビン特務

機関に転属となった。

 多年、蒙古工作を担当し、蒙古事情に精通した興安(前王爺廟)特務機関長金川耕作

大佐は、元関東軍参謀副長石原莞爾中将系の人物で、閑職時代の敦賀の連隊区司令

官時代に、敦賀を訪れた森と歓談するところがあったので、金川大佐の胸には森憲二を

起用する構想が固められていた。司令部との交渉を重ね森を引っ張った金川大佐は、

関東軍司令官梅津美治郎大将の諒解を得て、蒙古工作要員養成所の開設を決定し、

西北学塾と名づけた。

 金川大佐は直接的軍事目的などより、蒙古から新彊・青海・西蔵の西北地区の民族を

して大アジア連盟の一員たるの自覚を促し、その決起を求めるための要員の養成を、

胸のうちに画いていたのであったが、資金と人材を得る口実に、蒙古の司政官を教育す

るとか、特務機関員の養成、つまりスパイ学校とするとか、・・・ということで軍司令部の

許可を取りつけたのであった。

 「諸君は西北アジア諸民族の戦闘に立ち、大アジア建設の一環を担うべき使命を有する。

 本学塾は、将来その所在を西蔵に移し、東亜諸民族を一丸とする唯一の大学たらんこと

 を期しておる。従って諸君はその時の教授となる人材とならねばならない・・・」と

まさしく石原莞爾直伝の東亜連盟論の展開である。教授陣の中核となる気宇壮大な人物

として森憲二一等兵を塾頭に据えた。そして教授陣には外語出の精鋭を揃えた。

 

 昭和19年8月7日、森憲二らは11名の学生とともに、興安機関輔佐官の中佐が同行して、

内蒙古内に現場実習の旅に出た。国境のトレモトからホルトット、内蒙古に入ってノーナイ

スム、東ウジムチン王府、そしてラマクレからダブスノールを経て、8月15日頃にアパカに

到着した。学生を各所に投入して、西ウジムチンを経て帰ったのは9月6日であった。西北

学塾は第三期生を送り出す間もなく、塾頭森憲二は特務機関の仕事に、忙殺せねばなら

ないこととなった。

 

 特務機関は情報伝達の迅速を期するために、要所要所に偵察基地を設けて、情報収集

にあたる緑工作隊を組織して、森憲二上等兵(進級)は、一行6人を以って満蒙国境トレモト

からホルトットに至る地点に潜入していたが、陸続と迫ってくるソ連大戦車群に遭遇した。

「祖国よ、永遠に幸あれ・・・」 果てしなき曠野の一点に光が燃え上がり、一時代が終った。

 

西北学塾学則第一章

 行政官・学校教官・通訳官・学術研究調査官等の養成を目的とし、併せて西北事情研究の

 最高研究機関とす。松下村塾の塾風を以って教義となし、西北に挺身する真の国家的人

 材養成を以って使命とする。

                         完  


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