バッハ教会カンタータ日本語版楽譜シリーズ

推薦文

 


中山悌一    杉山     佐々木正利    佐々木まり子


 

意義深い バッハ教会カンタータの邦訳

中山悌一

(財団法人東京二期会顧問)

訳語により、意味がよく理解されて一般に普及することは結構なことと思います。

私もオペラの邦訳は幾つか致しましたが、日本語のイントネーションと音楽のニュアンスを合わせるのに骨を折りました。多くの邦訳をなさったことは、大変意義深いことと尊敬申し上げます。

 


 

バッハ受容史上、画期的な出来事 ― 大村恵美子訳詞「バッハ・カンタータ50曲選」を推す

杉山 好

(東京大学名誉教授、恵泉女学園大学元教授)

バッハ没後250年という記念すべきBach2000の年に、これまで40年近く続けられてきた東京バッハ合唱団の演奏活動のひとつの大きなしめくくりとして、この合唱団のモットーである「日本語でバッハを歌う」実践の歩みとその成果が、原詞と日本語歌詞をパラレルに付けたピアノ・スコア版の形に結実して、広く世のバッハ・ファンや音楽愛好家に紹介されることになった。

当初から一貫して日本語歌詞を手がけて、実際の演奏経験を積むなかで幾度も手を入れ、日本語に対する抜群の感性と、音とことばの関わり方についての手堅くかつ幅広い楽理的知識と、そしてなによりもバッハ・カンタータの世界が秘める精神的内実への深い共感と洞察に裏づけられた大村恵美子さんの訳業に対して、心からの敬意と称賛を献げたい。

この歌える対訳のすぐれた点は、まず日本語の平明さと簡潔さにあると思う。これなら老若男女、そして10歳前後の子供たちにも理解や発語に無理を強いることがない。その意味でこの歌詞は、ライプツィヒの少年合唱団を率いて、真に庶民のことばであるルター訳の聖書に根ざすドイツ語のカンタータを、日常的職務として次々に制作・上演していった、あのトーマス・カントルの音楽の力強い庶民性と人間的普遍性への橋渡しの役割を立派に果たしているといってよい。

次に、平易さをむねとしつつも、原詞の意味をよく汲み取り、さらには可能なかぎり逐語的にも再現しようとしている誠実な工夫と努力のあとがここかしこに見いだされる。この点も大村訳の真に敬服すべき功績として特筆に価する。その結果、バッハ・カンタータへの思想的ないし信仰的掘り下げが、この対訳を通じて歌う者と聴く者の心に確かに伝わってくることとなったのである。

今回の5ヵ年計画で取上げられる50曲は、いずれもバッハ・カンタータの多角的性格をそれぞれに打出している合唱重視の代表作といってよく、後代までの永続的再演に充分に耐えられる名作、傑作ぞろいである。

願わくば、大村恵美子訳の「バッハ・カンタータ50曲選」が、幸いにもわが国の音楽愛好家や合唱団に広くそして深く受け入れられ、この貴重な労作を通してバッハ音楽とその精神的・宗教的志操が、21世紀を迎える日本人の魂の再創造に寄与する大きな力とならんことを。この切なる願いをこめて、日本におけるバッハ受容史上画期的な出来事といえる、この度の意義深い企画へのエールを送ります。(20005月)

 


 

多くの音楽人、合唱人のみなさん。 もう臆することはありません。

聴く立場から、今こそ歌う立場に立てるのですから。

佐々木正利

(声楽家・合唱指揮者)

ことカンタータに限らず、およそ歌詞のある曲は、その内容の適格な把握が大切であることは、今さら言うまでもない。と、ひとことで言ってしまうのは実にたやすいが、声楽を志した時点から今の今まで、テキストの解釈については悪戦苦闘の連続である。日本のうたを歌うときですら、その詩の解釈には少なからぬ労力を割き、よそ行きではない、自分のこころの吐露にまでそれを昇華させるのは、相当なエネルギーが必要だが、それが外国語のうたの場合には、発音、抑揚、微妙なニュアンスについて、さらに徹底的に検証されねばならぬから、うたを歌う者の当然の責務とは思っていても、実際しんどい。

私が、バッハのカンタータに目覚めたのは、師である小林道夫先生の高邁なるお教えに出会ってから、ということになるので、それは今を去る31年前、芸大の1年生のときということになる。その頃の苦労はといえば、慣れぬドイツ語に四苦八苦するにとどまらず、キリスト教の教義の理解が思うように進まずに、なにか歌っていること自体がまやかしのような気がして、呵責の念に苛まれてばかりいた。それでも大バッハの音楽の偉大な説得力によって、それを具現することだけで、大いなる喜びに包まれたものだった。それが今日では、福音史家が専門などと標榜できるようになったのだけれども、ここまでの過程の不確かさを恥じることすらあれ、あたかも瓢箪から駒の体は免れない。

思えば、そのころから東京バッハ合唱団は気になる存在だった。だが、若かりし自らの不明をさらけ出すことが許されるなら、原語で歌わない合唱団には、ある種の優越に似た感情を抱いていたのも事実である。実際、演奏会にも何遍も聞きに行った。印象はといえば、格調の高いドイツ語によるものに比べて、なぜか軽い感じがする。日本語のもつ語感のせいだろうか、全体の彫りが偏平で、どうも心に染みわたってくるものが不足しているように思える。が、まあとにかく、抱いた優越感を帳消しにしたくはなかったから、必死になって“良さ”を打ち消している自分が、そこにはいた、と思う。だがどうだろう。曲が進むにつれて、心地よい自然さがイソップのなかの「太陽」のように私を包みこみ始めたのだ。何なんだろう、この気持ちは…。それは、ほどなく分かることとなる。

私が楽壇にデビューしたころ、大村恵美子先生はすでにバッハ研究の先駆を走っておられる方であった。その真摯な研究姿勢と優れた洞察力は、カンタータに寄せる並々ならぬ愛情、情熱とあいまって、聴くものに、歌うものに、確かな滋養をあたえられた。驚いたのは、あれは1979年だったろうか、シュトゥットガルトにリリング氏のバッハ講習会にご同行させていただいたときのことである。日本語で歌うのをよしとされている人間が、何故ドイツ語でのアカデミーに参加されるのか。そんな不躾な疑問をいだいた私に、先生はこう答えられた。「“言葉が生きる”と“音楽が生きる”は、バッハでは同義語なのよ。本来ドイツ語に作曲されたカンタータだから、ドイツ語で歌うのはもっとも自然なんだから、その自然さから学ぶのは当然でしょ。その自然さを知らずして、翻訳も何もあったものではないわ」と。それを聞いた自分はといえば、自らの偏見と狭隘な考えを、いたく反省したものである。

その後、いっぱしのバッハ歌いとして活動を始めた私だったが、その実、バッハ作品については一知半解な知識しかもっていなかった、と思う。そんな私に、大村先生は実に多くのアドヴァイスとヒントを与えてくださり、それだけではなく、自団の演奏会にもたびたび推挽していただいたからこそ、今の自分がある。そこに始まったお付き合いは、もう何年になるだろう。もちろんその間、大村先生が推敲に推敲を重ねられ、格調高い原詞の趣きをそこなわずに、カンタータの精神的内実の世界を、決してタームで語らず、平易で自然な歌詞に置きかえた珠玉の名訳の数々を、音楽として具現できる恩恵に浴してきた。その過程では、ときには原詞とちがったフレージングに、テクニカルな弱さを指摘され、戸惑いと焦燥に苛まれることもあるにはあったが、いつしか歌い込みがなされるうちに、それが原詞より自然に思えるほど馴染んでくるから、不思議であった。

私は今、自ら歌うだけではなくて、宗教音楽合唱を指導する機会に恵まれている。そこでは、実に多くの同人たちが、バッハに、シュッツに感動を覚えている。だが、同時に、ドイツ語という壁に立ちはだかられて、すごすごしり込みしている光景も、またありなのだ。邦訳で歌うについて、ひとは、聞いている人がわかるから、とその理由を言う。けれども私は、これは少々違うと思っている。実はそうではなくて、邦訳で歌うのは、歌っている人がわかるから、なのだ。実際、日本語は外国語に比べて、音符の数をより多く必要とする言葉だから、原曲の音符数では、邦訳する場合テキストをすべて語るのは至難の技である。この点でも、ほとんど余すところのない大村訳の素晴らしさは、称賛されるべきものである。しかしそれとて、やはり限界との戦いではあったにちがいない。けれども先生は、みごとにそれを克服し、歌う者にも聞く者にも、確かなるバッハのメッセージを感じさせてくれるのだ。

この「カンタータ50曲選」は、珠玉の楽曲の選りすぐりというだけでなく、合唱の名曲が網羅されていることが、合唱人にはうれしい。ことばの壁に阻まれて、カンタータを体験できなかった哀れな同志にとっては、何よりもの贈り物。M.ルターが聖書をドイツ語に訳した功績は、礼拝での聖書拝読が、より身近になったことで、信者を勇気づけた。だが、それにも増して、自分で聖書を読めるようになったことは、その何倍もの宝となった。多くの音楽人、合唱人のみなさん。もう臆することはありません。聴く立場から、今こそ歌う立場に立てるのですから。そして、全国にバッハの、カンタータのファンを増やしていきませんか。大村先生に、こころから感謝します。

 


 

長年アルト・ソロを歌わせていただいている私も、この日本語訳を歌いつつ、

今までなんと慰められ、力をいただいたことだろう。

佐々木まり子

(声楽家)

2000年は、バッハの没後250年ということで、日本の各地で《マタイ》《ヨハネ》の両受難曲、《ロ短調ミサ》《クリスマス・オラトリオ》などが演奏されていた。受難曲やオラトリオのように、内容の焦点が定まっているものに対し、カンタータには、聖書の中からのさまざまなみ言葉、場面に対しての合唱、アリア、レチタティーヴォがちりばめられている。救いの確信のよろこびを踊り歌うような合唱、人間の弱さを包みかくすことなく告白し、神の憐れみを乞いねがう深い感動のアリア。また、原詩ではなかなか聴き手も歌い手も内容を把握しにくいレチタティーヴォには、アリアに勝るとも劣らないテキストの核心が語られている。それらを、われわれの母国語である日本語で歌い理解できるのは、千人力を得た思いである。

大村先生の訳詞には、そのメッセージの的をつかみつつも、わかりやすさと格調があいそなわっており、まさに恵みとまことに満ちた日本語訳なのである。長年、大村先生がひきいる東京バッハ合唱団のアルト・ソロを歌わせていただいている私も、この日本語訳を歌いつつ、今までなんと慰められ、力をいただいたことだろう。終曲のコラールを合唱団とともに歌うとき、舞台は一同、神の霊に満たされる『至福の時』となるのだ。この「カンタータ50曲選」が、ますますバッハの魂を愛する多くの方々のお手許にとどき、用いられることを願ってやまない。

 


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