墓誌外伝


治水港湾工事の始祖

沖野 忠雄
(おきの ただお)
1845-1921




空前の淀川改修工事

 沖野忠雄は明治期の工学博士であり、日本の治水工事の始祖と呼ばれる土木技術者である。
 安政元年、但馬城崎で生まれた。幼少から秀才であり、明治3年(1870)大学南校(後の東京大学)に入った。その後、6年間のフランス留学を経て、土木学を修め、文部省に入省して、職工学校に赴任した。 内務省土木局に異動してからは、全国の河川治水に携わることとなる。

 沖野が指揮した数多くの工事の中で、最も有名なのが淀川の改修工事である。
 当時、淀川は大きく蛇行しながら大阪中心部に横たわり、毎年のように大洪水を引き起こして、市民を苦しめていた。特に明治18年の洪水は、30以上の橋が流失、大阪府全体の約20%の世帯が浸水するなど、甚大な被害が出ていた。
 また、淀川が流れ込んでいる大阪港は、上流から流れてきた土砂が長年にわたって堆積したため、吃水の深い船が入港できず、関西地域の経済活動に影を落としていた。
 大阪経済の発展には淀川の改修が必要であったが、財政難、用地取得等の困難が立ちはだかり、なかなか実現はされなかった。
 大橋房太郎が陳情活動を重ね、沖野が淀川の工事計画を内務大臣に提出して、明治29年、ようやく国の直轄事業として改修工事が始められることとなった。

 この工事は、琵琶湖から大阪湾に至るまで、河川の各所に洗堰や堤防を設置して流路を変え、さらに、河口部を浚渫して、蛇行していた淀川、中津川をまとめて一直線にするという、土木史に残る未曾有の大事業であった。ちなみに河口部の改修前と後の川の流路は次のとおり。

 新淀川の川幅は500m以上あり、それを掘ってしまおうというのだから、大胆なプロジェクトである。
 加えて、着工の翌年(明治30年)からは大阪港築港工事も開始。こちらの工事も横浜港、小樽港の予算の10倍という大事業であり、沖野は河川工事と港湾工事の現場を隔日で行き来して、指揮をとった。

  沖野の手法は当時としては非常に先進的で合理的だった。何をするにも人力が中心だった作業をやめ、工事用機械を多用し、システム化を強力に推進したのだ。 機械を大量に輸入し、故障したときのために直営の整備工場を作り、自前でコンクリートブロックまで製造する徹底ぶりであった。明治初期から、鉄筋コンク リートにいち早く目を付けたのも沖野であった。

巨椋池の消滅

  ところで、淀川改修が行われるまで、京都の宇治あたりには巨椋池(おぐらいけ)という名の巨大な池があった。一周16kmもあり、大きさからいえば、湖といった方がふさわしいほどの遊水池であった。蓮の名所として知られ、平安時代から貴族が別荘を構えて親しまれていた。
  周辺を流れる桂川、木津川、宇治川は、一旦巨椋池で合流し、そこから淀川となって、大阪湾へ流れ出ていたのだが、淀川改修の際、宇治川の流路を変えたことで池の排水が悪くなってしまった。水害は減ったが、池の水質汚染が進み、マラリアまで発生する事態となったため、干拓されることとなった。これが我が国第 1号の干拓事業となったのである。
 
 日本の国土は起伏が激しく、もともと全国の河川は、その凹凸を縫うように蛇行を繰り返して流れていた。河川の曲がり角や合流部、狭窄部は、流量が増えるとたびたび氾濫し、住民生活や農作物の出来に深く影響を及ぼしていたのである。
  明治政府は当時、日本全国にあるこのような河川を大改修し、国土改造ともいえる工事を各地で行った。この時期の国土改造のおかげで、特に沿岸部の整備が進み、後の漁業、海運、工業面で、その礎が築かれたのである。その頃に行われた治水、港湾計画は、今でも我々に計り知れない恩恵を与えている。
 「治水は国家百年の計」とはよく言ったものである。
 
  明治改修で治水された河川は主たるものだけでも、淀川、利根川、信濃川、富士川、木曽川、長良川など、大規模河川のほとんどが挙げられる。現在の日本の河川流域は、ほとんどこの時期に人工的に決定されたものなのである。そして、明治期に行われた治水、港湾工事のほぼ全てに携わったのが沖野忠雄であった。沖野が関わった改修工事は港湾約80、河川約100ヶ所にも及ぶ。
 同時期にこれだけの国土改修を行い、日本中の河川の流路を人工的に掘り直す壮大な作業を想像すると、当時の日本国家、国民のエネルギーの高さと活気が伝わってくるようである。
 一方で、ダムが建設されず、澄みわたった清流が谷底いっぱいに広がって、右に左に蛇行する、四万十川のような景色を眺めると、かつて、日本各地に風光明媚な景勝地が点在し、今以上に美しい国土があったことも思い忍ばされる。
  人と自然の共存は、とかく難しいものと考えさせられる。 

京都金戒光明寺

  沖野忠雄の墓は、京都の浄土宗大本山金戒光明寺にある。円柱状の台座が一段と、竿石のみという、デザインは風変わりだが、質素な作りであった。淀川改修が 終了したとき、明治政府は当時の責任者らに、大阪市長の年収の10倍という報奨金を出したが、沖野は最後まで固辞して受け取らなかったという。
 沖野の銅像は、淀川河川公園の日当たりのよい一角に据えられているが、墓所の方は参る人も少ないようであった。その偉大な業績とは裏腹に、その名は後世の記憶から薄れ、墓石は苔むして墓碑銘も消えつつあった。

   



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