墓誌外伝


京都銘菓ゆかりの人

八橋検校
(やつはしけんぎょう)
1614-1685




盲人の階級制度

 京都の土産に何を買うか。お茶か、生麩か、漬け物か。歴史の深い土地だけに、おみやげひとつ取っても、選びきれないほど豊富で、それぞれにゆかりがある。しかし、その中でも八ッ橋は京都に行った人の半数近くが買って帰る、定番中の定番商品である。
 その八ッ橋、そもそもの由来は江戸期の箏曲家、八橋検校から命名されたとのこと。
 
 昔々、平安時代、仁明天皇には、盲目の人康親王(さねやすしんのう)という子がいた。親王は出家して京都に隠遁し、盲目の人を集めて楽器や詩歌を教えていた。集まった盲人達は親王の身の回りの世話をし、後に、最も位が高い人物に検校という官位を与えたのが、盲人の組織の始まりといわれる。
  この組織のことを当道座と呼び、盲人は楽器を片手に平家物語などを唱ったり、琴や三味線を奏でたり、鍼灸を会得したりして身を立てていた。そして、業績や評判によって、官位が上がっていく、盲人独特の社会システムが明治初頭まであったのだ。

 八橋検校は江戸幕府が開闢(かいびゃく)して10年ほど後の1614年、今の福島県いわき市あたりに生まれたようである。初めは三味線で名をはせたが、後に箏曲を学び、楽器の改良から作曲、演奏技法等、多岐にわたって形式をまとめていった。その後、いくつかの流派が生まれたが、いずれも八橋検校がまとめたものを基礎としており、現在まで受け継がれている。

銘菓八つ橋の起こり

 話は戻ってお菓子の八ッ橋。八橋検校はあらゆるものを大切にする人で、米びつの底に残った細かい米粒が、いつも洗い流されてしまうのをもったいなく思っていた。ある日、茶店の主人に、米びつの残り米にニッキを混ぜ込み、せんべいを焼くことを勧めたところ、独特の風味で香ばしい煎餅ができたのだった。
 八橋検校は72歳で亡くなり、京都金戒光明寺に葬られた。光明寺は、地元で黒谷さんと呼ばれて親しまれている浄土宗の大本山で、参道一帯は聖護院と呼ばれる地域である。八橋検校を偲んで墓参りをする門弟に、参道周辺でこの焼き菓子を売ったのが「八ッ橋」の始まりだそうだ。当然、当時はあの硬い方の干菓子だけであり、縦に湾曲したおなじみの形は琴をモチーフにしている。
 この八つ橋を売り出したお店が、今で言う「聖護院八ッ橋総本店」と「本家八ッ橋西尾」である。創業はともに300年以上昔の1689年頃。その後、100年ちょっとした1809年に創業したのが「井筒八ッ橋本舗」で、後発とは言え、それでも100年以上の歴史を持つ、こちらも名店である。本家八ッ橋西尾はパリ万博に八ッ橋を出品し、銀賞を取ったりして、日本を代表する菓子にもなった。軟らかい方の「生八つ橋」が売られ始めるのは昭和に入ってから。
 ちなみに、八橋検校が由来という話は、聖護院八ッ橋総本店が主張している話で、本家八ッ橋西尾では、また違うお話がある。興味ある方はこちらの本家八ッ橋西尾のページへ。

 マンガで見る八ッ橋の始まり

 しかし、各地の名物で見られる、由来の違いとか、「本店」「本家」「本舗」とかの争いは、こんな時代からあるものなのかと、変に感心させられた。今ではうまくやっているのだろうか、この人達。

京都常光院

 八橋検校の墓所は、今でも京都金戒光明寺にある。光明寺には14もの寺院があり、八橋検校の菩提寺は常光院である。光明寺の墓地には膨大な墓碑が、比較的無秩序に並んでいるが、八橋検校の墓所は三重の塔のすぐ近く。石垣で盛られた広い敷地にあるので見つけやすい。300年以上経っても戒名がはっきり読みとれるのだが、何遍か彫り直しているのだろうか。盲人社会最高位の人だけに、立派な墓所であった。

 最後におまけとして、こんな事をやってる人を見つけたので、ちょっとご紹介。

 生八ッ橋は焼いたら焼き八ッ橋になるのか?

   



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