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自転車冒険記 − 15の夏大阪へ − 

芦ノ湖

横浜-大阪 8日間

高校1年の夏、自転車で大阪まで走った記録です。
それまで何一つ苦労を知らなかった自分が、挫折、孤独、出会いを重ねて成長出来た、自分自身の原点となる自転車旅でした。
しかし年を重ねる毎に記憶が薄れてきたため、2007年に一大発心してmixiで書いた日記をまとめたものです。

▼ その1 旅立ちへ

誰にでも必ず「人生の岐路」と言うものが存在すると思う。

「あの時があったから今の自分がいる」と言うような、良きにつけ悪しきにつけ、自ずと悟る悟らざるは別として、人生の方向を大きく変えるようなものが。

私の場合は15歳の夏、自転車をこいで横浜から大阪まで行った事も、その一つだと思う。

いつの日にか、何かの形で書き残そうと思いつつ、随分時間がたつにつれ、資料はおろか、記憶すら薄れていくようなので、兎に角ここで一度形にしておく。

私の幼少の頃は、大阪の祖母の元で育てられた。

小学校に上がる直前に、東京は港区芝の両親の元に引き取られた。

住まいは借間で、風呂すらなく、とはいってもこの当時は銭湯通いが当たり前だったので、特に気にするようなものではなかったが、小学校の友人達が皆自転車を持っているのが、とても羨ましかった。

ファミコンなどは言葉すら存在しない時代なので、友達と遊ぶと言うと、外を走り回るのが当たり前だったため、私はいつも友人の自転車の後を走って追いかけていた。

結局6年間、「置く場所が無い」と言う理由で、自転車を買ってもらえなかった。

中学に上がる時に、横浜の戸塚に引っ越すことになり、借家ながらも少しの庭があったので、自分の小遣いで自転車を買った。

物凄く嬉しくて、毎日磨いていた。

ところが、この戸塚と言う地は山坂が多く、平坦な道が無いと言っても過言ではないほど、起伏が激しい土地だった。

仲が良かった友人の家までは、心臓破りの坂を上らなければならず、そこを毎日のように往復していた。

小中学生の頃からのそうした日常が、私の脚力を飛躍的に鍛えていたと思う。

事実、長距離走では一度も負けたことが無く、陸上部にすら大きく水をあけて勝っていた。

今思えば、あの時から陸上をやっていれば、人生も大きく変わっていたと思うが、当時は帰宅後に自転車に乗る事と、夕方から空手道場に通う事が楽しみで、運動部には全く興味が無かった。

余談ですが、中野浩一が世界自転車選手権で連覇を始めたのもこの頃です。

小学校の6年間憧れ続けていた自転車を手にし、中学の友人を誘っては江ノ島や丹沢までサイクリングに出かけていたが、いつしか日本一周を目指すようになり、自分オリジナルの自転車を作ろうと目論んでいた。

高校受験が迫った頃、父が滑り止め無しの公立高校一本で合格したら、新しい自転車を買ってやると言い出した。

私が欲しかった自転車とは、部品だけ買い集めて自作する物で、総額十数万もするような物だったが、滑り止めの私立高校に十数万払うくらいなら、自転車にした方が良いだろうと言う。

こうして無事に公立高校に合格した私の元に、ヨーロピアンロードスポーツの自転車がやって来た。

日本一周への手始めに、夏休みに大阪に行く事を計画し、来る日も来る日も地図を見つめては、大阪へ夢をはせていた。

計画では全日程6日間。途中浜松の親戚の所で2泊するため、500数十キロを実質5日間で走る。

コースは至って簡単。国道1号線をひたすら西を目指す

。宿泊は親戚宅を除いてユースホステルに3泊。

1日目 横浜−富士 120km
2日目 富士−浜松 120km
3日目 浜松の叔母の家に滞在
4日目 浜松−名古屋 90km
5日目 名古屋−滋賀県野洲市 120km
6日目 滋賀−大阪府泉大津市 100km

後から知った事だが、この工程は無茶な計画だと言う。

また、国道一桁号線を走るのは、非常に危険だとも言われた。

しかし15歳の高校生にそんな事が分かるはずも無く、心配なのは天気だけだった。

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▼ その2 立ちはだかる箱根の坂

正確な日付は覚えていない。

ただ、資金稼ぎのためのアルバイトをしていたので、出発は8月中旬だと思う。

午前4時、まだ外は闇に覆われているが、私には光が差していた。

全てが未体験の冒険に、自分の脚力だけを頼りに挑んでゆく。

負ける事など考えても見ない15歳の少年の冒険の始まりだ。

自宅から国道1号線までは、数百メートルの平坦な道を行けばよい。

しかし、あえて丘を越えて1号線に出る。

そちらの方が近道だし、坂道の一つや二つ、数える対象ではないからだ。

夏の夜明けは早い。程なくして周囲は明るくなり、藤沢バイパスを走行していた。

本来、藤沢バイパスは自動車専用道路で、自転車の通行は出来ない。

走ろうとする者もいないほど、自転車にとって安全な道ではないが、当時の私には道路標識も分からないし、不可能な事など存在しない。

午前6時。出発から2時間経過した頃には、40キロの距離を走り抜けて小田原にいた。

疲れなど全く無い。

いや、この程度で疲れているようでは、ここで引き返したほうがいい。

この直ぐ先に、この冒険の中での一番の難所、箱根越えが待っている。

それも近道の旧道の七曲がりを通るのではなく、あえて遠回りの宮ノ下経由の1号線を選んだ。

目的は「挑戦」だからだ。

私の自転車はロードスポーツタイプのため、スピード競技を目的とし、坂道を登るような軽いギアーは付いていない。そのため、箱根のように延々と続く坂道は一番苦手なのだが、そこは若さに任せて登ってゆく。

しかし、箱根の坂は容易く挑戦を受け入れなかった。

チェーンが切れるのではないかと思うほど、ペダルを力いっぱい踏み込む。

反対側の足は、つま先をべダルに固定しているトークリップを、力いっぱい引き上げる。

それでも進まなくなったので、仕方なく小休止。

まだ登り始めたばかりだ。

このペースで休んでいては、いつ頂上にたどり着くのか分からない。

気合を入れなおして、坂道に挑む。

本当は一番軽いギアーでこげば、少しは楽になると思う。

しかし、15歳の少年の足には、常に負荷がかかっていないと、納得がいかない。

ある程度スピードが出なくては気に入らない。

だからどうしても足に負担がかかってしまい、休憩が多くなる。

そんな事を何回繰り返しただろうか。

今まで、裕福ではないものの、特に困難も無く育ってきた少年は、初めてここで壁にぶち当たる。

「登れないかもしれない」と。

励ましてくれる人や、手を差し伸べてくれる人もいない、事実上の孤独を感じて、たたずむ少年の脇を、エンジンをうならせた車が次々と過ぎてゆく。

そんな私の目に、坂の上から降りて来るサイクリストの集団が飛び込んでくる。

中には女性もいる。

反対車線から、その集団は私を見つけると右手を上げてきた。

サイクリスト同士のあいさつだ。

私もあいさつに答え、大きく右手を上げる。

その時に思った。

あの集団は坂を下りてきた。女性もいた。登らなければ降りることはできない。

奴らに出来て自分に出来ないことなどあるはずが無いと、強気な一面が顔を出した。

絶対に坂を登る。

どんな思いをしても、どんなに格好が悪くても、登りきる。

そう決めた時、休むくらいなら歩いてでも行こうと決めた。

歩きながら体力を回復し、そしてペダルをこぐ。

どちらもスピードは変わらないが、確実に前進する事が使命だと感じた。

しかし真夏の炎天下の登坂は、体力や気力だけでは上れるものではない。

普段から鍛えられていた体があってこそ、挑む事が出来た坂だと思う。

坂道と戦う事4〜5時間、1号線最高地点の標識が目に入ってきた。

最高地点という事は、つまり一番標高が高い所であって、そこからは下り坂になるはずだ。

そう考えると嬉しくなってきた。

遂に坂を制したのだ。

そこから芦ノ湖まで一気に下っていく。

いい加減お腹も空いてたので、湖畔のベンチに腰掛け、母が作ってくれたおにぎりをほおばった。

坂を登り切った事と、お腹がいっぱいになった満足感で、いつしかベンチに横たわって寝てしまった。

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▼ その3 快適な箱根の下り

30分から1時間程度は寝てしまっただろうか、如何に無限のスタミナを持つ高校生とは言え、箱根の坂はさすがにきつかった。

体力も限界だったと思うが、今日の目的地は富士だ。

まだまだ距離としては半分程度に過ぎないが、大きな難関を越え、これから沼津まで下り坂だと思うと、気持ちは前に進んでいた。

しかし、現実はさらなる試練を課す。

1号線最高地点の標識を見た後なので、その後はずっと下り坂だと思い込んでいたのだが、芦ノ湖から箱根峠までは上り坂が続く。

当たり前の話だが、峠と言うのは、そこに向かう道は全て上り坂になるが、一番標高が高い場所という事はない。

それでも、箱根湯本から芦ノ湖までの上り坂に比べれば、全くたいした事の無い坂道ではあるが、疲労しきった足には堪える。

普通ならば真直ぐに登りきれる道ではあっても、左右にふらふらと登って行った。

間も無くして箱根峠にたどり着いた時に、沼津と思われる町並みが見えた。

これで本当に登りも終わりだと思った時に、遂に一仕事を成し遂げたと言う満足感があった。

同時に悪夢からの開放感もあった。

箱根峠は、交差点になっている。芦ノ湖スカイラインや、十国峠方面の道と交わっているのだが、沼津方面は明らかに直進と分かるほどに、真直ぐ沼津方面に下っている。

それでも一応地図で確認する。

万が一間道を違えて、また坂道を登るような破目だけは、絶対に避けたいからだ。

そこからの下り坂は、実に気持ちが良かった。

風圧を感じながら、眼下に迫る町並みを目指す。

とは言え、道は一直線ではない。

下り坂を加速に任せて走っていると、どんどんスピードが上がっていく。

しかし視線は眼下の町にあるため、スピードを感じない。

左カーブが迫る。

カーブに合わせ、車体を左に傾ける。

見る見るうちに、カーブの外側へ追いやられる。

確実にオーバースピードだった。

反対車線の白いガードレールが迫る。

その先には沼津の町がある。

このままガードレールを飛び越えて、沼津まで飛んでいくのだろうかと思った時に、道路の先が見えた。

間一髪で曲がりきれたようだ。

危うく空中散歩をするところだった。

今日の目標地は富士だが、空を飛んでまで急ぐ必要はない。

自転車をこぐ自分の体力で行く事に意義がある。

この時に思った。スピードは出し過ぎないようにしようと。

それにしても、下り坂は楽だ。

今までの苦労が報われるとは、まさにこの事であろう。

道すがら、対向車線からはサイクリストたちが上って行く。

ある者は物凄い形相で必死にペダルを踏み込み、またある者は足を引きずりながら自転車を押していた。

誰一人涼しい顔をしているものはいなかった。

それらの姿に、数時間前の自分を照らし合わせた。

そう思うと、エールを送らずにはいられなかった。

サイクリストを見かけるたびに、力いっぱい右手を上げた。

それはエールと同時に、「我勝てり」の意味もあったと思う。

対向車線のサイクリストもそれに応えてくれた。

対向車線のサイクリストたちの辛さを、私は知っている。

そして私がその苦難を乗り越えた事を、彼らは知っている。

同じ苦労を知るもの同士、名前は知らなくとも、言葉を交わさなくとも、仲間だと感じた。

ただ楽をして下っているわけではない。

それらの連帯感から、私は大切なものを学んだと確信している。

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▼ その4 思えば遠くへ来たもんだ

峠を越えてからどの程度下っただろうか。

既に十数キロの間、まだ一度もペダルをこいでいない。

これが何処まで続くのかが楽しみだった。

多分海が見え始めた頃だと思う

失速して倒れそうになるまでペダルをこがずに頑張った。

そして坂道征服後、初のひとこぎから、一気に本日の終着点、富士ふもとの家ユースホステルを目指す。

決して近い距離ではないが、一気に駆け抜けた。

若干日が傾き始めた頃、目的地の近くで地図を広げていた。

その目の前にはタバコ屋がある。

ふと喉の渇きを感じ、タバコ屋で1リットルのオレンジジュースを買った。

店を出て、ボトルごと一気に飲んでいると、幼い女の子が奇妙な物を見る目で私を見ていた。

それは、うらやむような目つきで無い事は分かった。

1リットルを一気飲みは奇妙だろうか?

しかしそれだけ体が水分を欲しているし、糖分も欲しい。

そこからふもとの家までは、間も無くして到着した。

兎に角最初の1日を終えたことが満足だった。

箱根の坂を越えたのだから、後は何があっても驚かないと思った。

一人旅は初めてではない。

小学生の頃には、東京から大阪の親戚の家まで、新幹線に乗って一人で行っていた。

しかし、自分で宿を取ったのは初めての経験だ。

チェックインをして寝床を確保すると、他にすることは無い。

宿とは言っても、定員8名程度の小さな宿なので、直ぐに全体が把握できる。

食堂に立ち寄った時に、片隅に置かれたラジカセに目が行った。

勝手に音楽を聴いても問題ないようなので、カセットテープをあさり、「海援隊」のテープをラジカセにセットした。

この当時、海援隊の「贈る言葉」が大ヒットしていたし、武田鉄矢は金八先生と言うドラマで、誰でも知っていたからだ。

ラジカセから流れて来た「♪思えば遠くへ来たもんだ ここまで一人で来たけれど 思えば遠くへ来たもんだ この先何処まで行くのやら♪」と言う歌詞に、今の自分を重ね、しみじみと聞き入ってしまった。

この後海援隊を聴くようになったのは言うまでも無い。

彼らの歌には旅に関係する歌詞が多く、それこそ「思えば遠くへ来たもんだ」の歌詞にあるように、歌を聴きながら「遥かな旅路を夢見てた」

しかし、海援隊はこの翌年に解散したような気がする。

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▼ その5 2日目 浜松へ

2日目の朝、ふもとの家ユースホステルで朝食を済ませると、今日の目的地、浜松の伯母の家へと向かう。

多分この日は全行程の中で、一番記憶の薄い日だと思う。

昼食を何処で食べたのかすら覚えていない。

ただ出発前に、父から「飯はトラックがたくさん止まっている食堂で食うと美味い」と教えられていた。

この日も120キロを走行するが、前日の箱根越えを含む120キロに比べると、あまりにも楽な行程だった。

大井川を渡る際、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言う言葉を思い出し、それは絶対に間違えていると確信した。

私は泳ぎが得意だったので、大井川を泳いで渡る事くらい何でもないと思ったが、箱根はさすがに辛かった。

天竜川に差し掛かった時、この川は祖父と祖母の住む長野県伊那市につながっていると思うと、嬉しくなってきた。

天竜川を渡れば直ぐに浜松市だ。

伯母の家には従兄弟達も来ていると言う。

国道をそれると上り坂だが、その程度の坂は私には関係ない。

一気に駆け上がり、叔母の家の呼び鈴を鳴らすと、皆が出迎えてくれた。

到着後直ぐに、うな重の出前を取っていただいた。

私は何よりうなぎが好きだったからだ。

夜は4人の従兄弟達と共に雑魚寝をした。

狭くて暑かったと記憶する。

翌日は叔父の車で、従兄弟達と共に浜名湖一週に連れて行ってもらった。

2日間走り続けた足を休ませるには、丁度良い1日だった。

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▼ その6 雨・転倒・挫折

4日目の朝、伯母に作ってもらったおにぎりを持って、浜松を後にする。

従兄弟達には大阪で会おうと言って分かれた。

本日の予定走行距離は、浜松−名古屋間の90キロ。

全日程の中で、一番楽な日になるはずだった。

浜名湖を過ぎると直ぐに愛知県に入る。

国道一号線を順調に西へと走らせているが、気になる事がある。

今にも泣き出しそうな空模様だ。

今回一番避けたいのは雨であるが、長い日程を全て晴れの日と言うわけにも行かない。

大阪までは、1週間足らずの日程であるが、それは人生の縮図と言ってもよい。

晴れの日もあれば雨の日もある。山もあれば谷もある。平坦な道を順調に走るのでは、何も得るものが無い。全ての障害を乗り越えて、初めて人間が成長する。

しかしそれを悟るのには、それから何年、いや、何十年もの年月が必要だった。

岡崎に差し掛かった頃であろうか、一滴の雨粒が頬を打った。

遂に振り出したことを感じながら、不安げに空を見上げる。

その瞬間に少しバランスを崩した。

縁石に乗り上げた。

自転車から放り出される。

空と地面が交互に見える。

地面に叩きつけられた。

転倒した自転車が見える。

走行可能だろうか?

直ぐに自転車を点検する。

問題は無い。走れる。

フロントフォークに少し傷が付いた。

錆びないように、リムセメント(タイヤとリムを接着する接着剤)を塗っておいた。

気を取り直して走り出すも、間も無く雨が道路を濡らし始める。

しばらく雨に打たれながら走った。

途中で合羽を着たと思うが、あまり役に立たなかったような気がする。

それだけ雨が強くなったのか、あるいは荷物が濡れる事を恐れたのか、何れにしても雨宿りが必要になった。

名鉄の新安城駅前で、しばらくたたずんだ。

奇しくも安城は祖母の出身地だったが、そんな事はずっと後で知った。

雨は激しくなるばかり。

いつ止むのか。

雨に濡れたせいか、真夏だと言うのに肌寒さを感じ始めた。

風邪を引いてしまったのだろうか。

転倒、雨、気だるさの中で、だんだん気が滅入って行く。

知らない町で一人きり。

頼る人も無い。

孤独が少年を襲う。

泣き出したい気持ちであったが、泣いたところで、どうにもならない。

気分がネガティブになると、体力も低下していくようだ。

どうやら本気で風邪をひいてしまったらしい。

このままでは不味い。

兎に角電車に乗って名古屋まで行こう。

いや、いっその事、大阪まで行ってしまおうか。

ここまで頑張ったのだから、ここで止めても誰も責めないはずだ。

みんなよく頑張ったと褒めてくれるだろう。

自転車の前後輪を外し、輪行袋にいれた。

こうすればスキーの板などと同じように、手荷物として持ち込める。

当時は1区間分の料金を取られたが、現在は無料になっているようだ。

大きな袋を持って電車に乗ったものの、非常に体調が悪い。

名古屋に付いた頃には、意識がもうろうとしていた。

改札を出ると、ある男性に声を掛けられた。

「その袋の中は自転車だね。競輪選手か」

答える気力も無いが、無視するのは申し訳ない。

「自転車ですが、競輪選手ではありません」

しばらく言葉を交わしたが、早く宿に行って横になりたかった。

愛知県青年会館ユースホステルだったろうか。

チェックインすると直ぐに布団に包まった。

同室の青年にパチンコに誘われたが、未成年だと言って断った。

それから朝まで目を覚ますことは無かった。

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▼ その7 4日目 挫折を乗り越え

12時間以上は眠っていただろうか。
かなり気分は楽になっていた。
お腹もすいている。
伯母さんに作ってもらったおにぎりが残っている。
まだ食べられるだろうかと考える間も無く、おにぎりは胃の中に入った。

雨は止んでいたが、空は曇っている。
道路はまだ濡れているが、乾き始めている。

考えるより前進しよう。
近江希望が丘ユースホステルに電話を入れ、予約を取る。
予定通り今日も走る。
挫折しかけた心も、風邪と共に去った。

名古屋の国道は広い。何車線あるのだろうかなどと考えながら、西へと向かった。

間も無く木曽川へと差し掛かる。
この橋は、車道ではなく歩道を走った。

狭い歩道から川を見下ろすと、恐怖を感じた。
今まで渡ってきた川には河川敷があった。緑や砂利の間を川が蛇行していたが、この川は川幅いっぱいに水を蓄えている。
まるで海の上のような感じでもあった。

川を渡ると三重県だ。
四日市を過ぎて鈴鹿市に入ると、鈴鹿サーキットの看板が目に入った。
車の事はよく知らなかったが、鈴鹿サーキットくらいは知っていた。

その時、思わぬアクシデントが発生した。
後ろのタイヤがパンクしたのだ。
しかし驚く事は無い。
予備のタイヤを持っている。
ブレーキ脇についているレバーを跳ね上げてブレーキを開放し、ハブの脇のレバーを跳ね上げると、そのままホイールが外れる。
ホイールから力任せにパンクしたタイヤを引っ剥がす。
ここまでは道具を使わない。
タイヤを剥がしたリムに、リムセメントと言う接着剤を塗り、新しいタイヤを貼り付け、空気を入れれば作業は終了する。
この自転車は、チューブラータイヤと言う、通常とは違うタイヤを使っている。
タイヤの素材はコットンで、チューブを包みこんで、その端を糸で縫い合わせてあるため、パンク修理が大変だ。
だがそれは宿に着いてからやればよい。

しばらく走った所で赤信号があったが、車も走っていないのでそのまま直進したら、警察官に止められた。
罰金を取られるのか、あるいは逮捕されるのかと心配になった。
警察官は方言交じりの口調で、「信号無視したらダメだ」と言う。
何処から来たのかと問うので、横浜から来たと伝えると、厳しい顔がほころんだ。
何処へ行くのかと問うので、大阪までと伝えると、警察官の表情に笑みが浮かんだ。
「車と一緒に走っているのだから、ルールを守らないと危険だ」と言われ「頑張れ」と激励された。
その時、青信号だけは絶対に守ろうと決意したのは、今でも続いている。

やがて難無く鈴鹿峠を越えた。
箱根を越えて来た足には、単に、傾斜のついた道にしか思えなかった。

最後の宿泊地、近江希望が丘ユースホステルが近付く。
いよいよ明日は大阪に到着する。
試練は箱根の坂だけではなかった。雨の安城で、孤独にさいなまれ、挫折しかかった心を乗り越えた。
今回の旅で、一回りも二回りも成長したと確信した。
苦難を乗り越えた者にしか分からない事がある。
そして一度乗り越えてしまえば、それは苦難で無くなる。
次は更なる苦難に挑戦できる。
次も乗り越えて見せると決意した時、苦難は目標になる。
悠然と苦難に挑む姿こそ、真の勝者の姿と言える。

僅か数日で、人生にとって一番大切なことを学んだ。
そういう旅だった。

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▼ その8 2つの出会い


近江希望が丘ユースホステルにチェックインすると、部屋には先客がいた。
その男は私を見るなり、「やっとサイクリストが来た。5000円貸してくれ」と言う。
見れば自転車で旅をしている人間だと言うことは分かる。
しかし名前も何も知らない。今日始めて会った人間だ
それにいきなり金を貸せるか。
生返事でごまかしながら、鈴鹿でパンクしたタイヤの修理を始めた。

その男は、「チューブラーの修理か。始めて見たよ」と興味深げに覗き込んで来た。
パンクの修理をしながら、その男の話に相槌を打っていた。
名前は葛西と言い、埼玉から来ているらしい。
大学生だ。
葛西さんは聞く。明日は大阪に行ってしまうのかと。
もちろんそのつもりだが、彼曰く、折角なので、明日は京都で一緒に遊んで、もう一泊しようと。
悪くない提案だった。旅は道連れ世は情けと言うように、旅には連れがいた方が楽しいと言うもの。
何も全て予定通りに進行する必要は無い。
たまには横道に反れた方が、色々な物が見えてくる。

彼の提案を飲み込み、両親に電話でその旨を伝えると、葛西さんの話は弾んだ。
琵琶湖大橋を越えて、大原に泊まろうと言う。
15歳の少年には、葛西さんの話は新鮮だった。
この頃にはすっかり意気投合していた。

夕食の前後だったろうか、近くの高校が、サマースクールか何かで来ている事を知った。
もちろん先生らしき人もいる。
その中の女生徒の一人と目が合った。
お互い何かを感じたと思う。
しばらく見詰め合った後、女生徒が近付いて来て、「私みゆき。貴方は?」と聞く。
その後何の話をしたのか、全く覚えてはいないが、ずっと手をつないだまま散歩をしていた事は覚えている。
その噂は瞬く間に広がり、あちらこちらから視線を感じた。
好みのタイプではなかったが、悪い気はしなかった。

今覚えている事は、その子が1つ年上であった事。
それ以降電話もしなければ、手紙も書いていない。
しかし、初々しい思い出は永遠に消える事は無い。

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▼ その9 ♪京都大原三千院♪

葛西さんと共に宿を出た。
彼の宿泊費は私が立て替えた。
途中の郵便局で返してもらう約束をしていた。

昨日の彼女とはあいさつもせずに分かれた。
彼女は学校の授業の一貫できているので、朝は自由ではない。
続きを求めない方が、いつまでも思い出になると思ったし、現実として距離がありすぎる。

近江希望が丘ユースホステルから、琵琶湖大橋までは、それほど遠い距離ではない。
橋の通行料は、葛西さんが払ってくれた。
橋は途中で山なりになっている。
坂を登りながら、「誰だこんな坂を作ったのは!」と葛西さんが叫ぶ。
私には頂上の見える坂なんて、何も気にならなかったが、その気持ちはよく分かった。
サイクリストは坂が嫌いなのだ。

橋を渡ると、左手に比叡山を望みながら峠越えの道になる。
上り坂の途中の小さな郵便局に立ち寄り、そこで葛西さんは貯金を引き出し、立て替えた宿代を返していただいた。
これで貸し借り無しになり、葛西さんも信用できる人間になった。
実はそれまでは、彼を疑う気持ちを捨て切れなかったのだ。

峠を越えると、そこは京都大原。

♪京都大原三千院 恋に疲れた女が一人♪と言う歌は、知らない人はいないと思うが、何故か大原に来ると、三千院に行かなくてはならないような気にとらわれ、葛西さんと共に三千院に立ち寄った。
特に何を見るわけではない。ただ、京都に来て、三千院に行ったという事実に満足だった。

宿泊する宿は、大原ユースホステル。
現在は既に無くなってしまったようだ。
時間的にはまだ早いし、それほど距離を走ったわけではないが、葛西さんのサイクリングスタイルは、少しの距離を時間をかけて移動し、観光や旅の出会いを楽しみにしているらしい。
それこそ本当の旅上手だと思うが、生憎これだけは持って生まれた物の違いを痛感する。
私の場合は、遠い距離を如何に速く移動するか、基本がそこにあり、現在でもそのスタイルは変わらないので、出会いがあったとしても、せいぜいスピードを取り締まる警察官ぐらいだろう。
しかしいつかは、そのような贅沢な時間を楽しめる余裕を持ちたいと思っている。

大原ユースホステルに着くと、早速翌日の計画を立てた。
午前中に京都の町に下りて、少し観光をした後、昼飯を食べてから分かれようと言う内容だったと思う。

しかし、それは計画だけで、実行されることは無かった。

なぜならば、そんな二人の下に、新たなサイクリストが現れたのだ。

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▼ その10 さらなる出会い

サイクリストは樋口と名乗った。
この人も埼玉から来ている大学生だった。
樋口さんはかなりの京都通で、このユースも初めてではないらしい。
何でも朝食の時間になると、ここのご主人の名物館内放送があると言う。
その内容は後ほど。

樋口さんはこのユースで、他に2名の友人と待ち合わせをしているらしく、間も無くバイクに乗った2名が現れた。

5名になった仲間たちは、何処から来たのか、あるいは、どのような旅をしているのかなど、お互いの自己紹介を兼ねた自慢話などで盛り上がった。

そんな折、別に目をやると、女子大生らしき2名が目に入った。
早速声を掛け、仲間の輪に混ぜた。
ユースの良いところは、旅仲間とでも言うのだろうか、比較的打ち解けやすいところにある。
それには老若男女の区別はない。

実のところ、女子大生のうち、1名に興味があった。
いわゆる好みのタイプなのだ。

彼女たちは愛知県の一宮から来ているという。
住所と名前までは聞き出せたが、電話番号は出てこない。
さすがにそこまでは甘くないが、それが故に余計に興味が湧いた。

彼女たちは、我々5人を一緒に旅をする仲間だと思っていたようだが、それぞれが何処から来ているのかを知った時、一様に驚いていた。
それは、我々5人が、つい数時間前に知り合ったとは思えないほど、息があったように見えたらしい。

それもそのはずだ。皆自転車か、二輪車で旅するもの同士。
走行中は基本的に孤独で、雨風を受け、自然を感じながら走っているので、そこに不思議な連帯感が生まれる。

これもまた、同じ趣味を持つもの同士、言葉を交わさなくとも、分かり合える部分だと思う。

その後7人でトランプなどをして、楽しい一時を過ごしながら、翌日の話に及んだ。
樋口さん達3人は、嵯峨野の宇多野ユースホステルに泊まる予定だと言う。
これには葛西さんもためらわずに飛びついた。
みなの視線が私に注がれる。

本来であれば、今頃は大阪の親戚の家にいる予定だったが、折角の旅という事で、1日寄り道をしていた。
しかし、考えてみれば急ぐ旅でもなく、期限があるわけでもない。
それならば、2度と来ないであろうこの時を、思いっきり楽しんだ方が、より思い出に残るだろうし、何よりも皆と共に行かなかった事を後悔したくない。

横浜の両親に電話を入れ、もう1泊する旨を伝えた。
旅は道連れと言うが、15歳にして、気ままな一人旅の醍醐味を覚えてしまった。

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▼ その11 京都散策


朝食前、館内放送が流れる。
「女の人は、いつまでも顔にペンキを塗っていないで、早く食事に来てください」
これが昨日樋口さんが言っていた名物放送だ。
もちろんペンキとは化粧を意味するが、その昔は絵の具と言っていたらしい。
ところが、絵の具は水で薄めるのに対し、化粧品は水で薄めない事を指摘され、その後ペンキと言うようになったらしい。

もっとも、ここのご主人も、化粧を悪く言っているのではなく、食事に遅れて来る事を注意しているのだ。
一般の旅館とは違い、ユースホステルの場合は、ある程度のルールの下、集団生活に近い形になっている。
それが故料金も安ければ、宿泊者同士の仲間意識も発生する。

昨日の彼女たちも、例に漏れず、食事には遅れて来た。
化粧よりも食事の方が大事だと感じたのは、生きる事を優先させた男の思想で、生きる事よりも、外見を優先させる年頃の女性とは基本的に違う。

食後、彼女達に未練を残したまま、仲間達と宿を出た。

私の荷物は少なく身軽だが、葛西さんと樋口さんはキャンピングと言う種類の自転車で、荷物も多い。
他の2名はバイクのエンジンをかける。
そのうち1台は、ホンダのCB750というモデルだ。
この当時の最新鋭750ccだった。
特にバイクに興味があったわけではなかったが、このバイクだけは格好良いと思った。

それぞれ乗り物は違えど、下り坂ならば大したハンディも無いので、仲良く坂を下って行く。

少し坂を下った所に、寂光院という寺がある。
少しばかりの拝観料を払い、中に入るとお茶とお菓子が出された。
お茶と言っても、これは本物のお茶だ。
木の器に、たてたお茶が入っている。
お茶の作法など分からないまま、テレビで見たような方法で、器を回しながら飲んでみる。
イメージしていた苦い味とは全く違い、お茶の香りがとても良く、日本人である事を幸せに感じる味だった。

この寺は庭が自慢だと言うが、同時に天井も特徴があると言う。
客殿の縁側には、鳥居元忠らが自害したときの床板を移築した血天井がある。

なるほど、よく見れば顔のような跡もうかがえる。

お寺の拝観と言うと、拝観順路に従って歩き、仏像などを見ながら、その説明文を読むと言うのが私のイメージだったが、ここは職員の方が、お茶やお菓子をご馳走してくれて、この寺の説明をしてくれると言うもの。

それは寺の拝観というよりは、京都に来て日本を楽しんだと言う感じだった。

この寺はお勧めです。来て良かったと思います。

寺を出た後は、夕方まで別行動という事になったが、私は樋口さんに京都を案内してもらう事になった。

先ずは京都駅周辺まで行こうと言う事になったが、途中の交番のある信号だけは、信号無視するなと言われた。
そこのお巡りさんは、白い自転車で何処までも追いかけて来るそうだ。

京都市街地を散策した後、嵯峨野に向かった。

樋口さんの案内のままに進むと、そこにはテレビで見るような京都の町並みがあった。舞妓さんたちが歩いていると、何の説明もなしに、誰もが京都と言ってしまいそうな町並みだ。
場所ははっきり覚えていないが、金閣のある鹿苑寺の近くだと記憶する。

その後、他のメンバーと共に、宇多野ユースホステルで落ち合った。
出会って1日2日のメンバーだが、既に長年の仲間のように感じていた。

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▼ その12 仲間との別れ そしてゴールへ

明けて8日目、予定より既に2日もオーバーしている。
その2日共、京都で遊んでいた。
しかし、そこには出会ったばかりではあっても、素晴らしい仲間たちがいる。
宇多野ユースを出た後は、再び京都市街地へと向かった。

750ライダーは今日中に関東へ帰らなければならないらしいが、東名を使って帰る予定なので、昼までは自由が利くらしい。
もう1名のライダーは、舞鶴だったと思う
そして私も今日こそは大阪に行く。

喫茶店でコーヒーを飲みながら昼食を取り、いよいよその時が来た。

交差点から、皆違う方向へ向かい、進んだら振り向かない約束だ。

年齢も住む場所も違う5人だが、たった2日程度ではあっても、かけがえの無い仲間だと思った。
そして、その仲間たちとの別れは辛い。

出会ってからの思い出が、走馬灯のように過ぎ去って行く。

今まで絶え間なく言葉を交わしていた5人から、言葉が途絶えた。

お互い固い握手を交わし、別れのあいさつをした。

それぞれの乗り物にまたがり、背を向けると振り向かない約束だ。

私の自転車が、いよいよゴールを目指し走り始める。

背後には、遠ざかるバイクのエキゾーストノートが聞こえる。

目頭が熱くなることを感じながら、自転車の速度を上げていく。

別れ際に、誰も「さようなら」とは言わなかった。
「またどこかで」と言った。

別れは辛いが、悲しくは無い。しかし嬉しくも無い。

表現し難いが、多分楽しい一時をともに過ごせた感謝の気持ちだったのだろうか。

京都から大阪の泉大津までは約90km
決して近い距離ではないが、既に数のうちではない。
4時間もかからないだろう。

そこには、肉体的な限界、精神的な限界を経験し、それらを乗り越えてきた自信があった。

人生としては、その後何度も壁に当たったが、この8日間があったからこそ、全て乗り越える事が出来たと言える。

苦難を目の前にした時、先ず「勝つ」と決める。
後は絶え間なく苦難と戦い続け、それを楽しんでいれば、自ずと勝利する。

梅田の交差点に差し掛かった時、国道1号線が終わった事を知る。
そこから先は国道2号線に変わるが、左折して25号線を南下する。
後は南海線沿いに進めば、泉大津の駅に行かれるはずだ。

国道を泉大津駅前にそれ、少し線路沿いを走り踏切を渡る。
西に数分走れば目的地だ。

遂に横浜大阪間を走り切った。

正直、こんなに色々な事があるとは思わなかった。

机の上で考えていても、絶対に出てこない答えがある。

それを現場と言うのだろうか。

考える時間があったら行動しろ。

その方が答えが早い。

きっと、結果以上のものが得られる。

それは行動した者にしか分からない。

こうして、出発した8日前よりは、一回りも二回りも成長した自分がいた。
金では絶対に買う事が出来ないものを得た自分がいた。


帰り道は電車で帰りました。
大阪駅まで自転車で行き、輪行袋に自転車を入れて、寝台急行銀河で横浜まで帰って来ました。
銀河は急行なので、特急料金がかかる新幹線よりも1000円安かったのです。
それに一度寝台列車に乗ってみたかったのです。
もちろん、寝台列車に乗ったのは、これが最初で最後です。(笑

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