〜それぞれの道〜

『北海道人力リレー縦断記』

1600キャンプ
日高の稜線で黄昏れるエースサイトウとマッチことマチダ


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[序章]

いまだ遥かな襟裳岬


北のマチから97…暗礁

「ピーッ、イッケン、デス。えー、北海学園大学ワンダーフォーゲル部のイセムラと申します。 北海道縦断のことなんですが、是非やりたいと思いますので、えー、つきましてはいろいろとご相談をいただきたいので、えー、帰りましたらご連絡下さい。 よろしくお願いします……ピーッ、サイセイガ、オワリマシタ」
 留守番電話の録音内容を聞いた瞬間、思わず受話器を握り締めた。「よおしきたか、これは面白いことになるぞ」と。

 1997年、春。
 ぼくはちょうどその時、二カ月半を費やした南米の旅から帰国したばかりで、当面の生活費を稼ぐために東京でアルバイトをしていた。 旅の出発前に発送しておいた、母校のワンゲル部宛ての分厚い手紙に対する返事が、この留守電メッセージだったのである。
 そもそもの発端は、厳密に言えば十年近くも遡らなければならない。
「北海道人力リレー縦断・襟裳岬→宗谷岬」というプランは、ぼくがまだそこの現役部員だった頃にぼんやり思いついたものだ。
「ワンゲル部全員で、こんな風につなげたらきっと面白いだろうなあ」と考えていた。 しかし、毎年毎年深刻化してゆく中心メンバーの層の薄さによって、まったくそれどころではない、という現実に押しやられてしまっていた。
 やがてOBとなって現役部員たちとの付き合いも途絶え、ぼくはもっぱら単独で、川や海での少し本格的な旅をするようになっていった。 ところがそんな志向とは逆に、「あの計画」への憧れはますます強くなっていたのだった。
「単独でやろうと思えば、友人知人に協力してもらったり、細切れにすることで今すぐ実行に移すことができる。 そうではなくて、大勢の仲間たちがよってたかってつなげるのがこの計画の核心なんだ。誰か一人が主役になるのでは面白くないし、魅力もない」
 そんな思いは日に日につのっていた。
 そしてある日、遂に意を決したのだ。

  まずは今の部員と接触し、話をしてみようと、具体的な企画を手紙にして部室宛てに送った。とは言えこちらは見ず知らずのOBである。いきなり送りつけるに当たって、部員たちと近しいOBから事前に状況だけ聞いておいた。
「今のゲンエキはそんな元気ありませんよ。まず乗ってこないでしょうね」
 ピシャッとそう言われた。なるほど、たしかに世間は最近の学生気質を嘆き続けている。でも、諦める気にはならなかった。十代、二十代に対してまだまだ絶望などしたくはない。
 そうして「無理を承知」の強引な誘いを仕掛けたわけだが、結果は冒頭の通りである。もうぼくは舞い上がってしまい、半分望みがかなったように踊ってしまっていた。

 それは少し甘かった。学生の団体としてやる以上、そうすんなり事は動かないのである。
「準備期間が少なすぎる。区間ごとのメンバーもどんどん決めていかなければ」
 そう思って部会に参加してみたのだが、その議事進行ぶりは牛歩であった。意外なほど内気な連中が揃っているらしく、ぼくに対してもほとんど口数がない。
「本当にやる気のある連中なのかな?」
 少し不安になる。
 最前列に座ってこちらを向いている三年生が、何かテーマを振る。長い沈黙が続く。最後列で腕組みをし、腹を突き出しているヒマそうな四年生が時折、
「去年と同じでいいんじゃねーの」
 などと、やや投げやりに結論を出す。こんな繰り返しだ。やれやれ、である。特に事と次第がまだよく分かっていないらしい一年生は、終始下を向いたまま、まず発言することはない。
「イマドキの大学生って、こんなもんなのかな。俺の頃もこんなんだったっけ?」
 最初はそんなことばかり考えていた。

 部会にはほとんど毎回、顔を出した。
 額を突き合わせて、打ち合わせを繰り返した。
 ぼくの苦手な街の飲み会にも参加した。
 少しずつコミュニケーションがとれてきた。
 確実に動き出してはいたのだったが。

 今にして思えば、中止が決まるまでにさほどの日数はかからなかった。
 彼らにはできる限り多くのサポートが必要だった。つまり、自転車やカヌーなどを配送してくれる脇役が欲しかった。 当然ながら、それは大勢いるOBたちが喜んでやってくれるだろうと思っていた。
 これも甘かったのだ。その頃、この部のまだ歴史の浅いOB会が「遭難対策協議会」を機能させようと張り切っていた。そんな流れと無関係に走り始めたこの計画は、単なる勇み足の浮かれたイベントと見られてしまったようだった。それはしかし、ぼくにはまったくもって納得のいかないことだったのだが。

 OBと現役部員の間に公式の(つまり固い)交流が生まれたのはごく最近のことだった。以前は個人的な付き合いだけだったが、これまでOBの間には「金は出しても口出すな」という麗(うるわ)しい不文律があって、現役の活動内容をとやかく言うことなど決してなかった。ぼくは、それがこの団体の美学だと思っていた。しかし今、現実問題として、それは破られてしまった。
 はっきりした「命令」や「強制」でなくとも、はるかに年上の人たちから受ける威圧的な「忠告」は、自分たちの未熟さを知っている現役諸君にとっては命令に等しかったろう。ぼくの入らないところでそのやりとりが行なわれていたのもいちいち口惜しい。
「力量不足」とか「新人を育てる必要」とか、判で押したような理由を伝え聞いていくうち、すっかり嫌になってしまった。役所じゃあるまいし、前例のない活動をことさら避けるような意識を押しつけてどうするのだ。

 たまたまぼくが出席できなかった部会で、正式に中止を決定してしまった、という。残念な気持ちと同時に、申し訳なさで胸がつぶれそうだった。なにせ初めにこの企画を振ったのも、当のOBの一人である自分なのだから。
 ぼくはひとまず彼らに謝り、とりあえず今年の夏をOB会の言う「レベルアップ」のために当てようと提案した。まずは誰にも文句を言わせないことだ。 ぼく自身もこの夏の予定は全部空けておいたのだから、同じことだ。
 かくして、北海道リレー縦断の「序章」は始まった。

 夏。
 縦断計画で歩く予定だった日高山脈や大雪山の縦走を、彼らは例年通りの夏山合宿として実行に移した。ぼくもそれぞれ同行してみたが、力量的に何も問題は感じなかった。
 更に、利尻山や十勝連峰の縦走や釧路川、十勝川下りと、彼らは道内狭しと動き回っていた。やはり案ずることなどなかったのだ。イマドキと称される好奇心のない学生だったら、あんな計画に乗ってくるはずがないではないか。
 気が付いてみれば、この夏の行動を総合すると当初の北海道縦断に近い厚みを持っている、という結果が出た。特に二年生のマッチことマチダ、エースサイトウの二人はフル稼働だった。どこに行っても、行動力を感じる明るい連中だ。やはり一度くらいの足踏みで諦めてはいけない。
 もう一年、ぼくは自分の時間を彼らに賭けてみたくなった。
 夏の終わりの十勝川。川原で朴訥とした焚火を囲みながら、改めて彼らと「来年」を誓う夜を過ごしてしまっていた。良かったのか、悪かったのか……。


日高写真97
日高山脈ヤオロマップ岳付近を練り歩く



南海のビーチで野人生活

 何度となく山や川に同行しているうち、季節は冬に移ろっていた。
「イリオモテ島はいいよーう。あったかいし、海は綺麗だし、春先だってパンツ一枚で暮らせるよう」
 毎年恒例、春の四万十川へ行く、という話を聞いたついでに、ちょっとした気紛れで彼らに誘いをかけてみただけだった。冷静に考えてみれば、彼らのような行動意欲溢れる遊び好きが、こんな誘惑に抗(あらが)えるはずもなかったのだが。

 パンツ一枚の男たちが、ぞろぞろと迎えに出てくる。いや、女も一人居る。不気味だ。まるで原住民だ。
「コンチハー」
「オツカレサンデースッ」
 一応、日本語は話せるらしい。それにしても肌が黒い。夕闇のせいもあって、やや保護色気味である。ビーチに面した小さな林の中に、小ぢんまりと集落を形成しているようだ。いやはや…すっかり住んじまってる。素質は感じていたが、さすがにここまで馴染んでしまうとは思っていなかった。

  春まだ浅い三月の半ばには既に、一、二年生の主要なメンバー六人が、西表のビーチでキャンプ生活を送っていた。恒例の四万十川下りも当然のように済ませてきていた。
 話を振った当人のぼくが資金稼ぎに忙しく、途中からの参入になってしまったのが情けない。
 その日からぼくも一緒になって、毎日毎日夜更けまで小さな焚火を楽しんだ。海からの恵みや、地元の人からわけてもらった食材で野蛮きわまりない食事を作り、泳いだり潜ったりした。いつまでも飽きることのない不思議な退屈を、ぼくは彼らと共有させてもらった。

 この西表島には全国からたくさんの大学生がやってくる。その多くは、春休みを利用したワンダーフォーゲル部などの「合宿」というやつだ。
 しかしその行動はほとんど一様で、ただの軍隊ごっこをしているようにしか見えない。お国柄の違いを初めて目にした北ぐにのワンゲルたちは、かなり衝撃を受けていた。
 同じ服、同じ靴、南国のビーチにまったく不似合いな登山スタイルで、規律に従って動き、何をするにも一緒に取り掛かる。散歩まで「散歩に行くぞ」と言って出発の儀を始めたのには、見慣れているぼくも驚いた。これで同じワンダーフォーゲルの名を冠しているのだから赤面してしまう。
 もちろん同世代のこちら側にも似たようなところがないとは言えないが、自分たちの色を作っていこうとする意識の差は比較にもならないだろう。
 ある日、「またワンゲルが来た」とエースサイトウがつぶやいていた。

 ぼくがいつも世話になっているカヌーガイド業の店『南風見ぱぴよん』で、シーカヤックツアーに便乗させてもらい、無人島にも渡った。
 彼らはたちまち海に馴染んでしまい、たった一度の体験ツアーだけで、ぼくの頭からは縦断計画のシーカヤックにも不安がなくなってしまった。
 ほとんどの初心者の場合、海に対する闇雲な恐怖が馴染みを邪魔するものだが、沖縄の海の暖かさ、美しさのせいだろうか。
 海上でカヤックから海に飛び込み、サンゴの間をすり抜ける色鮮やかな魚を追い回したり、夕食の為の貝を獲ったりした。まるで竜宮城にいるような、夢の日々だった。
 まずはクールなコタニがクールに北へ帰り、デーブヤマモトが抜け、次に野人タカヤが帰ってしまい、という風に、一年生から数日おきに一人ずつ帰っていった。
 最後までしつこく居残ったエースサイトウが北海道に帰ったのは、彼が家を出てから一ヵ月半後のことだった。

「やるじゃない」
 とぼくは思っていた。少しくらいは現代っ子らしく、家に帰りたいだのテレビを見たいだのといったカワイイ発言を聞けるかと思っていたが、その手の欲求は微塵も湧かないようである。逆に、帰りたくないと何度もこぼしていたくらいだ。この連中なら、一ヵ月の北海道縦断でも気持ちが切れることはないだろう、と確信した。

 長期の旅で好奇心を持ち続けること。単調な移動や滞在の退屈を楽しめること。それには一種の素質や教養が必要だ。きわどい刺激ばかり与えられている現代の学生にとっては、相当に難しいオトナの遊びといえる。十九、二十歳の部員たちが、精神的な部分でこんな落ち着きを持っていたのは意外だった。
 でも言い方を変えると、彼らは年の割りにかなりジジムサイ、ってことなんだが……。



連続焚火日数は大幅に記録更新された


ペテカリA沢を目指して

 西表島での焚火の夜のこと。ぼくはエースサイトウと山の話をしていた。またもやそれは気紛れ発言から始まってしまった。
「日高の縦走さあ、また去年と同じコースだよなあ」
「ええ」
「物足りなくない?」
「はあ、そうですね」
「目標をさあ、高く持ったほうが燃えると思うんだよね」
「ん…、どういうことですか?」
 またぼくのお節介虫がうずき出していた。しかし物足りないだろう、というのも本当である。 昨年の日高では、エースサイトウ、マッチことマチダ、野人タカヤの三人は常に歌ったり、ジョークを飛ばしたりしてハシャいでいたのだ。
 ただの尾根歩きだけ、しかも同じコースでは、元気を持て余してしまうだろうということが実に明らかだった。
「俺も個人的にさあ、A沢行かないといつまでもスッキリしないし…」
 A沢とは、ペテカリ岳(一般にはペテガリ岳)の頂上に突き上げるペテカリ沢(一般にはペテガリ沢)源流の、A、B、Cという愛称を持つ三本沢のうちの一つである。 エースサイトウはちょっと驚いた様子で尋ねてきた。
「それってかなり(イマ風に語尾を上げる)ヤバクないですか? レベル高いんですよねえ」
「うーん、沢登りの世界じゃそれほど高くは見られてないと思うよ。だけど君らが今いきなり行くのは無理だろうなあ」

 十二年前のことになる。
 当時はこの部もカチカチの山志向で、日高の縦走といえば沢から沢へのいわゆる「沢旅」を意味していた。
 ぼくも沢の魅力にやられてしまった一人だったけれど、日高山系の沢登りは二年生にしてその時が初めてということもあり、異常興奮していた記憶がある。
 ペテカリA沢は、技術的にはそれほど無理な選択ではなかったはずだが、付け焼き刃でザックリ仕上げただけの当時のパーティーは精神的に未熟過ぎた。その時起きた事件を要約すると、要するに我々は位置確認を甘く見て、大支流一本を大胆に間違えたのである。
 普通こんなことはあまり考えられない。途中でそれに気付いていながら、「戻るのは困難だ」などと別の山に登っちまったのももっと考えられない。主稜線の猛ハイマツをかきわけかきわけ、憧れのペテカリ岳に立てたのは四日目の夕暮れ時だった。
「本当に『遥かなる山』だったなあ」などと苦しまぎれの感想を吐いたものだ。
 以来、ペテカリA沢はぼくの因縁の沢なのである。「いつまでもスッキリしない」のはそんなわけなのである。どうしてももう一度行ってみたかった。そのために、彼らの元気を煽って便乗するのだ。というのは約50%の本音だが、口に出してみて初めて様々な理由が浮かんできた。

 大きく考えて、この縦断をワンダーフォーゲル活動の集大成とするなら、是が非でも沢登りを組み込むべきだ、との理由である。
 冬の柱である山スキーやテレマークスキーは雪がなければ無理だけれど、夏の盛りに沢を歩かない手はない。ぼくがワンゲル部での山歩きの手段を、最終的にほぼ沢登りと山スキーに絞っていったのは、単純にそれが面白いからでもあるが、何より山を傷つけない、余計な手を加えないその柔らかさが気に入っていたのだ。
 北海道を「人力」で縦断するに当たり、カヌーの川下りと共にそんな柔らかい山歩きの手法を組み込むことで、何かこの計画にも主張っぽいものが滲み出てくるではないか。

 焚火を見つめる三人の目付きがみるみる変わってきた。まるで星ヒューマや花形ミツルのように、彼らの瞳に炎が灯りだした。と思ったら焚火の炎が映っているだけであった。
 しかしそうなのだ。彼らにとって去年の夏は小手調べみたいなものだったのだ。このままのんびりと、充分に達成可能な本番を迎えるよりも、もう一つ何か手応えのある壁が必要なんだ。
「おおー、沢かあー。うーんそうかあ…、やるかあ!」
 ぼくはつくづくと、この三人の将来を案じてしまう。彼らはきっと、青春風に「やれるだけやってみろよ!」なんて高い声で叫ばれたら、どんな悪徳商法や宗教勧誘にも引っ掛かるに違いない。単純で乗りやすい男たちなのだ。

「ペテカリを沢から詰めよう」を合い言葉に、六月から地獄の特訓が始まった。
 なんてのはちょっとオーバーであるけれど、実際に日高パーティーは二ヵ月近くの間、ほとんどの週末を山に費やした。彼らの沢経験を考えるとそれでもまだ足りないと思ったが、肝心なのは内容だ。慎重に、基礎的なところから始めて、徐々にステップしてゆく方法を選んだ。
 沢登りの山行だけを抜粋すると、「豊平川本流〜オコタンペ湖」、「漁川本流」、「チトカニウシ山ルベシベ沢〜湧別川」、仕上げの「余別川本流〜エコー沢」、最後はおまけに「無意根山白水沢」、といった具合である。山を知らない人には皆目分からないだろうが、詳細は省略する。

 そんな「日高組」が沢に集中している間も、他のメンバーは「林道マウンテンバイク」だの「50キロハイク」だの「千歳川全流川下り」だのと、絶えず暴れ回っていた。ぼくもできるだけ付き合って伝えられることは伝授し続けた。
 平日は肉体労働で汗を流し、金曜の夕方からは山に入るという苛酷な生活が続いたぼくの身体は、使い込んだファルトボートのようにくたくたのツギハギ状態になってしまった。
 ただ一つ、日毎に力強くなってゆく学生部員たちの、ユーモアに満ちたひたむきさだけが支えだった。ぼくは付いてゆくしかないのだ。
「仕上げ」と称して提案した余別川の支流エコー沢を、すみやかにこなせるかどうか、がぼくから出していた最終課題だった。北海道の山の古いガイドブックによると、この沢がちょうどペテカリA沢と同レベルに位置付けられていたからだ。その山行を付記しておきたい。


チトカニウシ
ルベシベ沢で腕をふるうクライマーのエースサイトウ


 七月十日、満月が小雨で隠れてしまった夜。この日のうちに積丹町余別に入らねばならない日高組を、縦断のサポート隊長を買って出ることになったタムタムことタムラが送ってくれた。
 翌早朝、薄暗いうちから余別川本流を詰める。「ゴルジュ」と呼ばれる絶壁に挟まれた地形が、前半だけで四ヶ所ほどある。そこでさっそく泳ぎを試す。天気は曇り。少し霧の混じるスッキリしない空である。
 早朝だから当然気温も低く、水温は10度未満。身体はあっという間に痺れ、動かなくなる。水から上がっても禁多摩の痛さにしばしうずくまる。しかし、こういうことにも慣れておかなくてはいけない。そんな思いだけで飛び込む。全員道産子だけあって、水温には強いのだ。
 キャンプ予定地の手前には7メートルの立派な滝が落ちている。ここも巻き道が付いているのを無視し、エースサイトウを先頭に直登を試みる。ぼくはしっかり巻き道を使い、上で待つ。そんなことを繰り返しながら、この日のキャンプ予定地であるエコー沢出合いには午前中に着いてしまった。
 さて、ここにテントを張って最小装備で上流へ、というのが普段のよくやるスタイルだった。頂上を目指すのではなく、沢を楽しみたいだけならそうするのが楽だからだ。だが今は燃えているのである。目標を高く持っているのである。そのためにここへ来たのである。あえてテントを張らず、荷物を残らず背負って上流の「下ノ廊下」へ向かった。
「廊下」とは前出のゴルジュが延々続くような、まさに家屋の廊下のような地形を表現している。廊下の壁の上、つまり屋根裏に当たる部分にはかすかに巻き道がついている。が、やはりそんなものは使わない。中央突破である。

 目標のため、と意識しながら前進しているつもりが、何故かみんな無性に楽しそうである。荷物が重たかろうが水が冷たかろうが、この俗世を離れた風景はぼくを含めた全員の美的感覚をどすんどすんと激しく刺激した。
 清らかな水、大きな岩魚、長い年月をかけて刻まれた超一流の彫刻作品群、そして緻細な苔。
 やはり沢登りは他に比類のない愉悦を秘めている。積丹半島はそう再認識させてくれる山域なのである。ただし、群れを成して集まってくるブヨの存在を除いて、であるが。
 幅の狭い急流に逆らって泳ぐこと数度、「下ノ廊下」の少し先までクリアして焚火の暖をとり、引き返した。
 夜の宴には言うまでもなく、再び焚火の華を咲かせ、ぼそばそと語り合った。ふと足元を見るとブヨがびっしりと集っている。元気な連中だ。こちらももうすれっからしになってきて、あまり防御にも力が入らなくなってきている。
 キャンプの夜や移動のバス、列車の中で、いつも身体のどこかしらをぼりぼり掻きむしっている風景は野外男の風物詩だ。避けては通れないし、最近では反って「こんなに刺されちゃったよ」と誇らしげにしている風でもある。

 翌七月十二日。いよいよ最終試験のエコー沢に入る。水量はごくわずかだが、ただならぬ侵食地形を早くも感じさせる。
「うわっ、なんだこりゃあ」
 狭い。あまりにも狭い。取っ付きどころのない函の奥に小さな滝がかかる、といったパターンが連続する。
「なんでまたこんな時間から泳がにゃならんのだよ。日曜日の朝六時なんて、みんなまだ起きてもいないよ」
 一つ、また一つと難所を乗り越えてゆく。最初はとても難しそうに見えるのだが、何度か挑戦するうちに呼吸、というかリズムのようなものが掴めてきた。
 それにしてもすごい風景である。水の流れる溝があまりにも狭く、先が見通せない。時には両岸に手を掛けて乗り越すこともあった。
 核心部を通過し、やがて現れた5メートルほどのダイナミックな滝は右岸から高巻く。ペテカリ沢ではこの手の繊細な高巻きもあるからちょうど打ってつけだ。
 更に上流の函を越えたところでタイムリミットとなり、充分な手応えを感じて引き返した。

 下りで足を痛めてしまったぼくが先行して歩き、三人は「懸垂下降」などの課題をこなしたり、率先して泳いだりしながら下山した。
 乗りやすく、燃えやすいのは解っていたが、それだけではない勤勉な面も持っているようだ。口にこそ出さなかったが、ぼくは彼らに合格点をつけていた。いやいや、実際に日高の沢になど入ったら、ぼくは引っ張ってもらう立場になるだろう。
 ともあれ、ぼくにとっては彼らが、厳しい状況でも頼れる相棒であるように思えてきた。

大学サークルの宿命なのである

 とにかくやれるだけのことはやった、と思うことにした。時間には限りがあるし、彼らにこれ以上を望むのは酷だ。それにぼく自身の足の状態も気掛かりだ。日高に沢から入れるかどうかは微妙だが、それは残念ながら本人たち以外が決めることなのである。
 襟裳岬に発つ日が近づき、各区間のメンバーもほぼ決定して正式な計画書を提出する時期になった。
 彼らはあくまで大学の一団体として集まっている。すべての計画に対して最終的にOKを出すのは大学なのである。そしてその「大学」当局にはできない判断、計画に関する適不適の判断をしてくれるのが「顧問」ということになっている。
 そんな兼ね合いもあり、ぼくは顧問の高橋教授を訪ねた。春にも一度挨拶をしているのだが、高橋さんはこちら側の事情により、今年から山岳部との兼任で面倒を見てくれている。それを思うとあまり手数を掛けさせたくはなかったが、こればかりは計画書を出してすんなりポン、とハンコを押してくれるはずもない。
 日高以外は問題ないとして、やはり日高に沢から入山する計画に対し、ここ数年の沢登りの実績はあまりに少なかった。

 予想以上に話は長引いてしまった。
「大学の方針、考え方に俺なんぞが口を出すまい。ただこれまでの経緯を説明し、彼らの言葉足らずを補ってやるだけだ」
 と、そう考えて話を聞いてもらっていたつもりが、いざ「無理」と言われると反論したくなってしまったのだ。
 実際、現実的に無理だとは思っていなかった。高橋さんも、君が一緒なら多分行けるのだろう、という言い方をしてくれた。ただ、現役部員の側に日高の沢の経験がほとんどないという事実のみ、どうしても引っ掛かっていた。
 しかし、言われるようにぼくに何かあったら、サイトウに何かあったら、と考え出したらキリがなくなる。それこそどこへも行けなくなってしまう。
 明確な規定がないだけに、どの辺で折り合いを付けて信頼を得ていくかが、いつの時代も部員たちの課題になっている。この部が未だかつて大きな事故を経験していない事実から見れば、それは今まで良好に機能していたのだと思う。そして当然のことながら、信頼関係がない限りはダメと言われれば潔く諦めるしかない。そんなことは分かっていたが……。

 今年の「現場」でぼくが見届けた実力よりも、去年までの活動内容で判断されなければならないことに、少なからぬ憤りを覚えた。
 高橋さんは実に親身になって部員の身の上を考えてくれている。けれども、その感覚だけを判断基準にはできない嫌な壁があるのだ。
 もし本当に「何か」があった場合、他人事で騒ぐだけが生きがいのマスコミや「世間」が、真っ先に判断基準とするのが過去の実績だろうし、形の上での経験(年数などのこと)だろう。
「大学側はどんな判断をして出したのか」と問われて、
「見ていて大丈夫と思った」
「現場の判断に任せた」
 などと言ったらたちまち無責任と糾弾されるだろう。マスコミはこぞって悪者を仕立て上げ、遺族もわけの分からぬまま裁判を起こし、大金を請求するのが最近の通例だ。それならば目新しい計画は認めないのが最も手っ取り早いのである。
 大学生は好きなように動ける、と思われがちだが、意外にそうでもない。勝手にやっちまえば何でもできるに違いないが、それではサークルとして集まった意味がない。
 小さな枠の中で何かを成してこそ価値があると考えるような、高い意識とやる気と野心を持っている者ほど、世間という粘着質の見えない壁にぶち当たる。
 何もせず、適当に卒業だけ目指す無気力学生が培養されてしまう、その理由の一つがここにある。

 三人の熱かった二ヵ月は報われず、ペテカリA沢遡行計画は正式に中止となった。
 ともかく、いつまでも引きずっている場合じゃない。日高組の落胆ぶりはひどかったが、計画を登山道に変えた分、昨年踏めなかった1839峰の往復と、カムイエクウチカウシ山までの延長を認めてもらった。カムエク(略称)からの下りは小ぶりながらも沢歩きだ。充分じゃないか、と必死で気持ちを盛り立てる。

 追われるように日々は過ぎ、スタートの前日がやってきた。土砂降りの中、車二台で襟裳岬へ向かう。ここまでが長かった。やっと両手を振って歩きだせる。けれども、彼らの長い夏はこれからだ。


十勝川
夏の爽快な十勝川。北海道を代表する風景の一つだ



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