〜それぞれの道〜

『北海道人力リレー縦断記』

オホーツク海
旅は終わりに。最後の海へ船出していく五人を見送る


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[最終章]

オホーツク海シーカヤック


 ワンダーフォーゲル(渡り鳥)の北帰行

 クッチャロ湖は白鳥の湖である。
 秋と春、この水面に飛来するコハクチョウの群れは壮観にして圧巻、騒音と言っていいほどのけたたましさだという。
 そもそも彼らはシベリアの北極圏内で繁殖し、冬の寒さを避けて秋のクッチャロ湖にやってくる。しかしここはあくまで中継地であり、しばらく羽根を休めた後には本州に移動し、そこで越冬する(ちゃっかり餌付けされてここで越冬するのも多いらしい)。逆も同様に、クッチャロ湖で一休みしてから雪解けの北海道を後にし、樺太経由でシベリアへ帰る。
 とまあ、そんなことが知られているわけだが、実はぼくたちも渡り鳥の名の下に、快適な気候や面白そうな土地を求めて季節移動を繰り返している、ということはあまり知られていない。
 本物の渡り鳥はしばしばロマンティックな印象をもって語られるが、いい歳をして同じことを繰り返すぼくはしばしば現実論をもって諭される。不条理である。

 渡り鳥のことをドイツ語で「ワンダー・フォーゲル」という。そしてぼくたちはその名を団体名に冠しているわけで、それなりの誇りや哲学らしきものはある。
 対して、例えば夏の大雪山や春休みの西表島で見かける内地の「ワンダーフォーゲル部」は、何か大きな勘違いをしているとしか思えない。
 同じザック、同じ服、同じ靴を身に着け、渡り鳥らしく統一しているつもりかもしれないが、すべてを強制的に、学年序列の上下関係で決めるその行動はどこから見ても「軍隊のマネゴト」である。
 西表島の休憩所や名所の岩場に暴走族とまったく同じ落書き(○○大学ワンダーフォーゲル部参上!など)を残すその驚異的な無神経。
 大雪山の避難小屋トイレにまで同様の寄せ書き(御丁寧にメンバー全員の記名)を書き記す低能ぶり。これらはワンダーフォーゲルの名を汚す名誉毀損として、訴えるに値する卑劣な行為だ。

 そもそも十九世紀にドイツで広まった「ワンダーフォーゲル運動」とは(うろ覚えだが)、生活道具を背負って野山をさすらう自然回帰運動だったように記憶している。それがしかし、日本の大学サークルには語感の美しさだけが輸入されてしまったのだ、とぼくは推測する。
 そして更に逸話を一つ記す。
 言葉は輸入されたものの、日本には「荒野」「原野」と呼べる場所がほとんどない。勢い、フィールドを山に求める。そこには既に「山岳部」が君臨している。
 学校教育によって、「人生とは他人と競うことなり」と刷り込まれていた当時の血気盛んな大学生にとって、「山岳部に追い付き、追い越せ」という発想に陥るのは、ごく自然なことだったろう。
 かくして、東京某大学ワンゲル部の「新入部員シゴキ致死事件」にまで事は悪化する。

 今、この現役部員たちが伸び伸び飛び回っている姿を見るに付け、その無意味な過去は一体なんだったんだ、と思えてくる。
 実はぼくの現役時代も、(ワンゲル部って一体何をすればいいんだろう?)なんて実に根源的なことで思い悩み、ジタバタしていた。
 考えてみれば、体育会系のサークルで「何をすればいいのか」なんて悩んでいるところはないだろう。野球部は野球をするし、サッカー部はサッカーをしていればいいのだ。当然のことだ。
 ところがこの部は少しやっかいなのである。(ワンゲルってなんだろう?)との疑問には、今もって明快な答えは持ち合わせていない。
「なにをしてもいいのだ」と言えばカッコはいいが、自動車を使って温泉巡りをしながら「これもワンゲルだ」なんてウソぶくのではちょっとさえない。
 やはり渡り鳥部なんだから、みんなで好きなところにさすらうのが理想ではある。
 更に、その方法として選択できる非日常的移動手段(飛ぶことも含めて)がたくさんあるのなら、それはもう最高だろう。
 そんな意味からも、この縦断計画はぼくたちのぼんやりした「ワン・ゲル観」の集大成とも言える行動に、いつの間にか確立してしまった気がする。

 キャンプ場周辺が旅行者や観光客で賑わう夏場は、白鳥も湖畔の巨大な模型を残すだけで、かえって湖面はひっそり落ち着いている感がある。
 クッチャロ湖畔キャンプ場は湖畔道路のベルトに沿う格好で、細長く草地(芝生)が整備されている。
 敷地そのものはかなり広大なのだけれど、ぼくたちの目的はあくまで湖へのアプローチなので、便利さを最優先して入り口の駐車場横にテントを張った。ロケーションや静けさなどはこの際二の次なのである。

 このキャンプ場には都合二泊したわけだが、「やっぱり」と思う出来事ばかりで正直ウンザリした。
 初日の晩などは大学生のグループが(こちらも大学生のグループなのだが)深夜の二時を過ぎても場内を走り回っており、しまいにはぼくのテントの枕元で絶叫を残して走り去って行った。
 平和主義のぼくもさすがにガマン袋が破れ、たしなめに(というよりブチ切れて怒鳴りに)行ってしまったが、翌朝の様子を見た限りではまったく反省の色がなかった。よほど大学に連絡しようかと思ったくらいだ。
 今でも不愉快な気分が残っているのでこの際書いておく。リーダー格の男がか細い声で名乗った団体名は「A山学院大学サイクリング部」である。
 この連中の幼稚さはちょっと異常だった。まるで大学生は何をやっても自由と思っているか、あるいは北海道のキャンプ場は規則もなくて誰にも怒られることなどない、と信じているかのようであった。
 ぼくの後輩に当たる今の現役部員たちの幼稚さ、バカ騒ぎもなかなかのものだが、それは無人の川原や山中での話であって、さすがに公共の場では当たり前の道徳や礼はわきまえている、と思う(第一、そんな気を使いたくないから普段はキャンプ場なんて絶対使わないし)。
 だいたい、それさえ持っていなかったら何のための義務教育なのだ。情けない。陳腐な言い方をしてしまうが、
「もう一度小学校からやり直したまえ」
 以上一方的なメッセージ。

 天北線が早く終わったために二十一日は休養日となった。
 天塩川下りを無事に終えたクールなコタニが、バスと列車を使って車を回収し、その足でクッチャロ湖へやってきた。
 まったくよく働く男である。休養していたぼくも、カヤックの運搬要員として彼に同行することになった。
 天塩町では久し振りの縦断サポータータムタム、及び同じ五年目のタカハシダイスケも合流して、車二台でのカヤック部隊大移動を開始する。
 天塩川漁港の工事現場にひっそりとテントを張っていた川下りパーティーは、縦断完結を前にひと仕事終えたいい顔をしていた。
 天塩川下流のあの熾烈な向かい風と向かい合ってきたのだろう。お互い、短い別行動中のみやげ話を披露したくてウズウズの顔で、再会を祝う。しかしタケウチは既に消えていた。

 クッチャロ湖の「縦断本部」に全員が集結すると、ちょっとした賑わいになった。
(ここに居る人間すべてでゴールできたらいいのに)とつい思う。
 タムタムとタカハシダイスケはこのカヤック運搬のためだけに、何時間も車を飛ばしてきたのだ。アルバイトなどの予定がびっしり詰まっているらしく、あっという間のトンボ帰りをしなくてはいけない。
(もったいない)と思う反面、そんな時間を割いてまで後輩たちの力になろうとする彼らの心意気が、ちょっと頼もしい。

 この日は朝から南西の強風が吹き荒れていた。空全体はポッカリと蒼さを見せているものの、風だけがまるで台風のように暴れていた。
「ここへ来て最後の試練かなあ」
 思えばこの一ヵ月、そこそこの雨や風はお見舞いされたものの、行動できないほどの悪天候には遭わなかったのが最大の幸運である。
 まあ、「そこそこ」では屈しないタフな行動ができているわけで、そう考えればみんな強くなっているのだろう。ひとつの目的のために。
 明日もこの風が止まなければ、その時はぼくが決断を下さなければならない。
 海へ出られるか否か、の判断基準はシーカヤッカーそれぞれだが、この場合、つまり大学の一団体として行動する以上、そのレベルはぐんと下げる必要がある。元より無茶をする気はさらさらないけれど、できればスッキリ終わらせてやりたいものだ。

 最終章ということもあって前置きが長くなってしまった。そろそろ行動を再開しよう。

クッチャロ湖
夜明けの広い湖畔で出発準備を整える


 輝く砂丘の海を漕ぐ

 八月二十二日。襟裳岬から三十日目となる。
 朝から快晴。前日の暴風が嘘のように、朝起きると穏やかな空気が広がっていた。
 つくづく運のいい連中だ。おそらく海もベタ凪ぎだろう。
 今日も早い時間から良い緊張感が漂っている。海へ出る者、それをサポートする者、両者の無言の信頼関係らしき気配が、この素晴らしい朝日に似合っている。
 目の前のクッチャロ湖畔にカヤックを並べ、服装や装備を整える。海へ漕ぎだす前の準備時間はいつもピリッとして好きだ。特に今日は充実している。

 オホーツク海シーカヤック初日は次のようなメンバー構成で臨んだ。

 エースサイトウ・デーブヤマモト=ファルホーク バレント(二人艇)
 野人タカヤ=ファルホーク 220R(一人艇)
 ホンダエンジン=ファルホーク ボイジャー(一人艇)

 これらのファルトボート(組み立て式カヤック)は日本製だが漕行性能の良い佳作で、夏のオホーツク海ならば、彼ら程度の実力でも問題なしと判断したのである。
 なんちゃって、実際はこのフネしか調達できなかっただけのことだ。必要充分ではあるけれど。
 ぼくは愛用のフェザークラフトに乗る。これだけはカナダ製で、ラダー(舵)が標準装備のれっきとした海用である。数年前の北海道一周の時も、このカヤックでこの沿岸を漕いでいる。
 性能はもちろん、世界中の冒険家たちの実証済みだし、なんだか高級そうに見えて、実際値段も高い。ぼくは道具と割り切ってゴンゴン使っているけれど、学生たちがまるで高級車でも見るような羨望の眼付きになるのが可笑しい。

 マッチことマチダが寂しそうに、準備作業を見守っている。
 彼は当然ながら、この区間の本メンバーだった。それが残念なことに、天塩川の逆風ラストスパートで腕を痛めてしまっていた。ただの筋肉痛なら無理もきくだろうが、どうやらそれどころの痛みではないらしい。
 今まで、長身に邪魔をされてたびたび無理を強いられている彼を見てきた。小回りのきく他の連中と違って、彼はいかにもフィールドにおいて不利だった。しかしいつも我慢強く歩いてきたのだ。
 そのマチダが最後に来て弱々しく、
「ちょっと……無理みたいです」
 と、自ら降板を申し入れてきた。筋でも違えたのか、とにかくひと漕ぎもできないような状態らしい。
 ぼくにはどうしようもなかった。そのためにサポート班がいるのだ。代わりがいてよかったじゃないか、と思うことにする。
 彼の代わりにはエンジンが、そして何故か弱気な本メンバーのクリヤマに代わってデーブが、それぞれカヤックに乗り込んだ。

 五時五十五分、出発。
 湖〜川〜海などという洒落たコース取りは、以前にも網走湖などで経験があった。でもここは格別だ。
 クッチャロ湖からクッチャロ川に入ると風景は一変する。
 予想外に繊細な川岸の様子を味わいながら、間もなく目前に広がるであろう大海原を思うのは、実に想像力を掻き立てられる魅力的展開であった。
 さらりとした平らな流れに乗ってゆるりゆるりと進む。クッチャロ湖とつながっているだけあって野鳥の姿も多い。
 やがて岸辺を飾っていたキタヨシが途切れると、頓別川の大流に合する。なるほどこういうことか、とぼくは一人納得する。
 頓別川の名の由来は、アイヌ語のト・ウン・ペッと言われ、直訳すれば(湖・に入る・川)となる。かつてクッチャロ湖が生活の中心だったとすれば、頓別川のような大川も脇役(湖に入るための川)に過ぎなかったのかもしれない。

 そんなことをウツラウツラ思う間に、突然に海が見えてしまった。野人タカヤが、ホンダが、興奮を隠さず叫ぶ。
 いつもの川下りならば、海へ出た時点で旅は終わってしまう宿命にある。しかし今日はここがスタートなのである。彼らには初めて味わう喜びだろう。
 海も予想通り凪いでおり、朝の柔らかな日光を浴びてチカチカと乱反射を見せている。その中へ、引き潮に乗ってするりと滑り出る。
 視界いっぱいの水平線。見通す限りに果てなく延びている猿払の砂丘海岸。

オホーツク海
果てしなく続く大海原に興奮する野人タカヤ(右)


「うおおおーっ、広いぞおっ!」
 深夜のキャンプ場で絶叫していた連中も、こういう場面を選べばよいのである。すべてのストレスは身体中から抜け落ちて、海中にポトリと落としていく気分。
 小さく緩やかにうねる海面上を、海の経験などごくわずかな学生たちが、嬉々として漕ぎ進んでいくのは楽しい光景だった。
 延々と先に続いている砂浜と低い段丘の岸に、つかずとも離れずともなく並漕する。左手の砂丘の向こうには「ベニヤ原生花園」が広がっているはずだ。
 何キロかごとに定置網が張られていて、ロープの上をヨイショと乗り越すのだけが、唯一の特別作業だった。

 シーカヤックによる沿岸ツーリングは、99パーセント以上の「退屈」と、ごくまれに突然降り掛かってくるほんの少しのスリルで成り立っている。
 浜猿払の漁港が近づくにつれ、風と波が勢いをつけ始めた。向かい風気味なのであまり進んでくれない。
「この防波堤さえ越えれば落ち着く。あと少し、あと少し」
 と、自分や他のメンバーに言い聞かせながらパドルを振り回す。
 防波堤の先端を過ぎたところで嫌な三角波はおさまり、前方にクールなコタニたちサポート班の姿が見えた。彼らの立つ砂浜に上陸し、軽い昼食にする。

 ここからはキャンプ予定地も間近なので、せっかくだからとメンバー交代を試みる。二人艇の前に誰が乗ろうと、後ろで船長を務めるエースサイトウが不気味なほど落ち着いており、何事にも動じないので手が掛からなくていい。ぼくは全体の行程だけ気にしていればよかった。
 一艇ずつ、ぼちぼちと出航し始めた時のことだった。
 絶叫が起こった。続いて爆笑が起こった。振り返ったぼくも、危うく笑い死にしそうになった。
 単調な海上移動に変化を与えてくれたのは、意外なことにカヌー歴九年と威張っていた一年生のホンダエンジンであった。

 思えばこの縦断行の間、札内川でも天塩川でも沈(転覆)がなかった。期待の逸材はたくさんいるのに、もっとも楽しいハプニングがなくてぼくも困っていたのだ。
 よかったよかった。これでシーカヤック編にもメリハリがついた。ここにしっかり記録しておこう。
「本田啓輔、オホーツクのさざ波に撃沈さる!」
 実際、波の立っている砂浜からカヤックを出すのは結構難しい。ファルトボートは乗ったまま引きずれないだけもっと難しい。
 彼は両足を外に出して漕ぎ始め、海上で腰を浮かしたためにこの憂き目にあった。この方法は彼のような大男には向かないだろう。
 しかし、一番の原因は彼の慢心だと思われる。それだけになんとも愉快である。

 もうキャンプ予定の浜鬼志別は間近に迫っていた。多少波立ってはいるが、海も安定した夏の表情を保っていた。
 ビデオ撮影を頼んだコタニの方向を見ると、なんだか見覚えのある人影がパラついている。手を振る人影を凝視すると、それは士幌線でも陣中見舞いにきてくれた編集人の森山さんであった。
 後から聞いた話では、取材の途中にぼくたちを見付け、岸から応援してくれていたのだった。急いでいたらしくすぐに消えてしまったが、森山さんに会ったことで改めてこの旅の長さを思う。

 浜鬼志別の漁港の手前、奇怪なモニュメントが建つ「インディギルカ号遭難慰霊碑」の下に無事上陸。
 サポート班も合流し、マッチことマチダと野人タカヤは当然のように泳ぎ始める。内地の人なら絶対入らない水温、気温だろうが、彼らには屁でもない。
 ひとしきり騒いだ後は、砂浜で厳かにテント村を建設する。ゴミや漂流物は多いが、人の入ってこない砂浜は快適で、西表島での日々を思い出させた。
 階段を上がると広い駐車場があり、道路を挟んで小洒落たホテルが建っている。周囲には意図も使途もよく分からない雑多な小屋が点在しており、その中の一つが公衆便所である、と聞いてもすぐには見つけられないほどの複雑無意味な配置をしている。

 ここに来ると誰もが、
「で、インディギルカ号って、何?」
 と同じ疑問を持つのだが、ぼくは以前ここにあったキャンプ場に二泊したことがあり、少しは資料を読みかじって知っている。
 インディギルカ号遭難事件とは一九三九年の冬に起きたソ連(当時)船の座礁事故で、このすぐ沖にあるトド岩という岩礁に乗り上げ、横転したとされている。
 七百数十名が水死し、四百三十名が救助された。しかし、真に注目されるべき事実はその凄惨さよりも、地元の漁師や稚内駐在の陸軍傭船による、自らの死も処分も怖れない決死の救助活動にあるだろう。
 その後一旦事件は忘れ去られたそうだが、地元猿払の素朴な村民だけは、戦時中さえも欠かさず法事を営み、毎年その多数の犠牲者を悼んできたのだという。
 一九七十年になってやっと、そのことがソビエト側に知られるところとなり、公式にも民間レベルでも交流が始まったのだそうだ。
 自国での大災害を前にしてもお上の命令なしにはまったく動こうとしない今の自衛隊や、とっさの的確な判断力などカケラも持ち合わせていない政府を思う時、逆にこの事故に関わった人たちの人間味からは、時代を越えて暖かさが伝わってくる。

 明日もきっと海に出られるだろう。今夜は最後の夜になるだろう。流木をたくさん集め、広めにおこした焚火のおきで「網焼き」の宴を催した。
「その肉俺んだって!」
「もっと乗せろよガンガン焼けよ」
 彼らのよくある風景ではあるが、みんな何を思っているやら、いつもなら大騒動になる焼肉にも言葉が控えめで、意外に静かな夜になっている。
 ぼくが何度か余計な口出しをしたためか、このところそれぞれが少し距離を置いて付き合っているような気もしている。
 二十歳前後といえば、そりゃあ仲間同志といっても色々な人間模様があるだろう。例えばエースサイトウとクリヤマが男と女の意識を強めていった頃にも、他の部員たちの見えない部分で、微妙な乱気流が吹いていたようだった。
 それでも、ぼくが観察して解っていることなど、彼らの中ではずいぶん小さな部分に違いない。
 ひょっとするとそんなこととはお構いなしに、内面ではそれぞれ堅い個人主義に撤しているのかもしれない。いや、まさか純粋に、明日終焉を迎えるだろうこの旅を振り返ってみたりしているのだろうか。だとしたら逆に不気味だ。そんなのは若者じゃない。

 焚火の宴は朝まで続く、はずの彼らもすっかり早寝の癖がついてしまった。長いテント暮らしの疲れもあるだろう。おずおずとそれぞれのテントに消えていき、不完全燃焼のマッチことマチダと裸人オノだけが残った。
 ぼくは一度テントに入ったが、何故か「今日ぐらいはいいだろう」という気になり、彼らの焚火にお邪魔したのだった。
 聞くともなしに二人の会話を耳に入れていると、意外に面白そうなオノからの告白が始まったのでつい聞き入ってしまった。
「一時はどうなるかと思いましたよ」
 などと、何やら物騒な気配だ。
 聞けばどうも一年生のナカオとホンダがデキているらしい。……ではなかった。どうやら二人はすっかり犬猿の仲、口も聞かない状態だったのだ。
 今はかなり治まっているが、ボヤキのナカオは音威子府に来る列車の中で、
「ヤロウを一発ぶん殴って辞めてやる」
 と吠えていたという。
 なるほど物騒だ。それで彼はザックも背負わず観光みたいな格好で現れたのか。
「家の用事」などと口を濁して帰ろうとしたのは、本当の理由を知られたくなかったのだ。
 そこで間に入ったオノは一人静かに悩んでいた。テントがちょうど三人用だったために、彼を真ん中にして二人がそれぞれ外側を向いて寝ていたそうだ。
 オノという男も酔うとメチャクチャなくせに、こんな時は優しい先輩なのだ。

 ケンカの原因はよく分からない。
 これはあくまでぼくの推測に過ぎないけれど、おそらく張り切り過ぎのホンダエンジンが、今一つこの計画に乗り切れていない(ぼくから見れば充分よくやっていると思うが)ボヤッキーに対して
「オマエもうちょっとしっかりやれよ」
 くらいのことを言ったのだろう。
「アイツなんかに言われたくない」
 という発言があったそうだから、きっと些細なきっかけに違いない。
 ぼくはオノの告白を聞きながら、「いいなあ、こうこなくちゃなあ」などと一人ニヤニヤしていた。
 思えば他の二、三年生たちは気持ち悪いくらいに仲が良く、口ゲンカさえ見たことがない。
「ウソだろう!」とぼくはいつも思っていた。
 表面上で輪を保っていても、人間同志の軋轢がないわけはない。ただ仲間の輪を壊すのが恐くて、直接相手に不満をぶちまけたりしないだけだ。
 言いたいことを我慢して溜め込んで取り繕っても、本当の信頼関係は得られない、と思う。
 自分の現役時代を思い出してしまった。
 先輩とも、後輩ともよく言い争いをした。いつも本音をぶつけあっていた人たちとは、一線を越えた後には何も言わなくても解り合える気がしていた。
 そんな関係を持てるワンダーフォーゲルに、だからぼくは今も変わらず愛着を抱き続けているのに。

焚火
奥にいる連中は日焼けも食い意地も並外れている


 今宵の海のように

 最終日となるだろう八月二十三日の朝が来た。
「やっぱりな」と思う。こんな時、お天道さんは必ず見ていて、晴れ間を望めば晴れてくれるものだ。いつもそうだ。
 もちろん、そんな風に天気が決まるはずもないのだが、ぼくはそう思い込むことが結構好きなのである。恐らく、雨なら雨で(やっぱりな)と思うに違いない。雨のゴールなんて、彼ららしいじゃないか、と。
 すっかり住みなれた狭い一人用テントの中、ぼくはさっさと朝飯を済ませ、五時半には全員が揃って海に出た。
 途中で最終メンバーに固定するため、午前中はこれまで漕ぐ機会のなかった裸人君オノを中継ぎに投入。気分はすっかり絶好調のベイスターズ権藤監督である。
 このオホーツク海区間に関しては、ぼくが現場の全責任を背負うことで承認してもらっているからしょうがない、のだ。今回だけは事実上の監督を演じなければいけない。
 海の経験がないオノをエースサイトウのバレント(二人艇)の前に乗せ、更に荒一天クリヤマを一人艇で漕がせることにした。
 彼女は一応、計画上はシーカヤック経験者という扱いなのだが、いつも二人艇の前に「乗っかっている」ような態度が目立つため、たまに独立心を味わってもらおうという試みである。
 どこまで保つか分からないが、まあ海面はシワ一つないベタ凪ぎである。不安要素はないはずだが……。

 野人タカヤは相変わらず淡々と独自の世界を醸しながら前進してゆく。
 このヒトは山に入れば山男風の野人になるし、海に出たなら「待ってました」とばかりに漁師風の海男に変身する。それでいてススキノに行けばソチラ方面の野人として淫らな空気を撒き散らし……。
 これはまた別の話であった。
 元来海育ちである彼は、シーカヤックという分野の経験以前に、海の上における態度というものを心得ているようだ。
 ほんの一ヵ月前まで、日高ペテカリA沢を目指して沢登りに情熱を注いでいた山男の姿とはうまく重ならないが、「水を得た魚」とはまさにこんな様子を指すのだろう。無駄のない動きには疲労感がまったく見えない。
「イシモトさんが北海道一周した時って、一日何キロくらい漕いでたんですか?」
「んー、まちまちだけどね。昨日ぐらいの行程を毎日続けたら、単純計算で七十日あれば一周できるんだよ」
「うおー、ななじゅうにちかあー。うーんそおかあ」
 その顔には明らかに「俺もやってみてえ」と書いてあった。是非やるといいよ。
 それにしても、タカヤと海の上でこんな会話ができるとは思ってもみなかった。それもこのベタ凪ぎのおかげだ。

 シーカヤックによる海面移動の旅は、あらゆる移動方法の中でも最も「よそ見のできる」旅ではないだろうか。決められたコースなども存在せず、進行方向を細かく気にする必要がない。
 ぼくなどは常にキョロキョロと周囲を観察し、何か面白いものはないかと探っている。
 更に今日のようなベタ凪ぎであれば、海上はほとんど無音の世界となり、数十メートル離れた他のメンバーと普通に会話ができるのだ。これは素晴らしいことだ、と思う。
 耳に入るのは自分や仲間たちのパドルが奏でる水音と、微細な風の音だけだ。
 古代アリュートのカヌー(カヤック)「バイダルカ」を復元し、製作し続けているジョージ・ダイソン氏の言葉を思い出す。

《この惑星に広がる水の上を静かに滑っていこうとするなら(中略)君は風や波に気づかれぬよう、ほっそりとした形をとらねばならない……軽く、すばやく、巧みに動き、水と空気の界面に溶け込んでいく》(『宇宙船とカヌー』 ケネス・ブラウワー著 芹沢高志訳 ちくま文庫より)

「気持ちいいなあ」
「気持ちいいですね」
 そんな他愛ない会話を続けながら、四艇のカヤックは着実に北へ向かっていた。

 どうしても、遅れてしまうのである。
 ふと気付くと、クリヤマがいないのである。
 そんなに飛ばしているわけじゃないし、彼女もシロートじゃない。追い付くまで待つこと数度、一向にペースの上がる気配もない。それになんだか様子も変だ。
 岸にサポート班の姿を見つけたので、休憩がてら上陸して合流する。すると、
「船酔いしました」
 クリヤマが弱々しく口を開いた。
 訊けばカヤックをちゃんと真っすぐ進めるために、舳先ばかり注目していたのだという。やはり今までいつも操艇を他人任せにしていたらしい。
 それにしてもお粗末すぎる。それじゃまんま素人じゃないか。

 結局、彼女はここでギブアップとなった。やはり雨女は晴れ間に弱い。
 ここで元気が余っているデーブヤマモトと交代する。ヤマモトは抑えの切札のつもりだったが、まだ10キロ程度しか来ていない序盤での投入となり、本人も焦って準備をする。ロングリリーフに耐えられるだろうか?
 同様に元気を持て余しているホンダエンジン、マッチことマチダの二人が泳ぎ出し、艇上の野人タカヤを挑発している。タカヤが本当は泳ぎたくてたまらないのを知っているのだ。
「うおえいああー!」
 野人は悶絶の雄叫びを上げる。このヒトならば泳いで宗谷岬を目指してもいいだろうに、とチラリ思うが、今は先を急ごう。
 漕ぎだしてすぐ、ストレスの溜まった野人タカヤは歌を歌い始めた。いつものように、目一杯の大声を張り上げて、たまに音をはずしながら……。
 本日の選曲は、エレファントカシマシの「今宵の月のように」(だったと思う)である。途中何度も歌詞を忘れて突っかかるのだが、2、30メートル離れたところからデーブヤマモトが間髪入れずに教えている。実は歌詞を知っている彼も歌いたいのだろう。
 それにしても。
 彼らは本当によく歌う。山でも川でも歌う。「カラオケ世代」ということなのだろう。歌がウマイ、と言える人間は一人もいないが、いつも実に気分良さそうに歌っている。

ボヤッキー
すっかりボヤキがなくなってしまったナカオ(前)


 たぶん、なんでもよかったのだ。
 彼らはきっと、心の底から燃え上がることのできる、何かを待っていたのだ。
 じっとしていると無気力そうに見えてしまうその表情の中にも、種火のようなものは常にくすぶっていたのだ。ただ、それに注ぐに値する燃料が手に入らなかった。
 例えばそれがダンスだったならば、彼らはダンスに夢中になっていただろう。たまたま、「ワンダーフォーゲル部」の門を叩いてしまったこと。ついつい、辛い山登りに誘われるままついていってしまったこと。そんな一つ一つのきっかけが、いつのまにか彼らの価値観を変えてしまったのに違いない。
「少しはヤツらのことも分かってきたかな」と思いたい気持ちが、「いやいやそんな風に決め付けちゃいけない」という冷静さと交錯する。
 何故いつの時代も、大人たちは若者を理解しようとしないんだろう、とよく思っていた。けれどぼくもきっと知らない間に、自分のモノサシで彼らを測ろうとしていたのだ。世代の差なんて測れっこないことに、気付かずにいたのだ。
 恐らく、親子の関係と一緒で、考え方や気質を理解し合う必要はなかったんだと思う。いや、理解しようとするのはいいことだけど、結論はあまり必要ではない。
 今ぼくはこの連中を理解しているとはとても言えないけど、もうすっかり信頼してしまっているし、好きになってしまった。関係ないのだ。

 最北の風に吹かれて

 あっという間に東浦に着いてしまった。期待のリリーフヤマモトは予想以上に肩が仕上がっている。
 最後の中継地点である東浦漁港の防波堤に、サポート班の姿が見える。ここで少し早めの昼食を取り、最後の乗艇メンバーを絞らなければならない。
「どうしようかなあ」
 本当はこういう役目は苦手なんだけど、監督のぼくが決めなきゃしょうがないのである。
 ま、最後に誰が漕いでいようと特に意味なんてないさ、と次のように手早く構成し、昼食後、厳かに発表した。

 エースサイトウ・マッチことマチダ(二人艇・バレント)
 野人タカヤ(フェザークラフト)
 デーブヤマモト(ボイジャー)
 クールなコタニ(220R)

 腕の痛みが癒えていないとはいえ、マチダにオホーツク海を漕がせてやらないとぼくの気持ちがすっきりしない。
 何せ去年の春からずっとこれに賭けてきた筆頭株の男である。温情の入り込む余地などない「スポ根物語」じゃあるまいし、海もベタ凪ぎだ。
 例えば極端な話、エースサイトウが二人分漕げば済むことである。一番気心の知れた相棒なんだから、そのくらいはやってくれるだろう。
「あれっ、イシモトさんは?」
 そうであった。野人にぼくのフェザークラフトを貸すとカヤックが足りないじゃないか。と、そんなわけはない。
 初めから決めていたのだ。
 条件さえ許せば、彼らだけでゴールして貰おうと思っていた。そして、その条件は完璧に許してくれている。
 この先海況が急変しそうな地形も気配もない。携帯電話で連絡も取れる。もうぼくは下りるしかないではないか。
 出発前から何度か彼らに言ってきた。
「スタートは俺のもの。ゴールは君らのもの」
 本当に縦断が完結できるかどうかは疑わしかったが、ここでやっと真実味をもって目前に迫ってきた。ぼくは横から最後を見届けられたら本望なのだ。
 自己犠牲のつもりでもなんでもなく、これが素直な本音だった。

「気にしないで、君らだけでのんびり味わって来なよ。そうだ、このことは一応内緒だからな」
 そう言って送り出した。
 特にクールなコタニは、ここまでさんざん裏方をやって本隊を支えてきたのである。たかだか15キロ程度だが、彼には終結を飾ってほしかった。
 五人の後ろ姿はキラキラ光る海に映えて眩しかった。
 野人タカヤの後ろではワニダパッカーが、こちらを向いていつものように笑っている。
 もうみんな、この旅から得られるものは既に獲得しているのではないか。そう思えた。

 最終班を見送ってから、サポートの四人と車で移動する。責任者が陸を行くのは不思議な気分だが、まったく不安を感じない。ぼくはもう彼らを信頼し切っているのだと実感する。
 しばらくの間道路は海岸線から離れ、車が再び海に近付く頃には広い高台の上を走っていた。最高に見晴らしの良い崖の上で、サポート班は四艇のカヤックが現れるのをじいっと待っていた。

 不仲説を伝えられたホンダとナカオは、どうやら和解し合ったのか妥協し合ったのか普通に会話している。
 まあそんなもんだろう。「お前らやめろ」なんてお節介を焼かなくとも、仲間や先輩たちが目標を持って歩いていれば、きっと自分たちの腹を立てている理由が実につまらないものだと気付くはずだ。
 ケンカは大いに結構だけど、動機なんて酒飲んで忘れちまえばいい。
 やがて現われたカヤックは、固まったり離れたりしながら、まどろっこしいほどゆっくりと眼下の海上を通過していった。
 見渡す限り広大な大海原の只中を、四つの小さな点のようなカヤックが通過していった。
 それを見届けた我々サポート班はひと足早く、日本の最北端でもあるゴールの宗谷岬に先回りした。
 記念すべき最終地点。しかしそこは予想通り、観光客のごった煮会場となっていた。ただただ猥雑な人の流れ。その中で、ぼくはどういうわけか、感傷を抑えることができなくなっていた。

ゴールは目の前
ゆっくり、ゆっくりと、終わりが近づいていた


 海際の手摺りの上に、危うげに三十分ほど立ち続けただろうか。宗谷港から延びる防波堤の先を、ぼくはずっと見続けていた。
 ふいに、先端からカヤックの姿が現れた。その瞬間、自分でも信じられなかったが、涙があふれてきた。
 どうしていいものか分からなくなった。それはもう本当に、にじむ、なんてものじゃなくて、ドクドクと溢れてきたのである。
 何故だったんだろう、とその後も、落ち着いて書いている今でも思うが、よく分からない。涙もろい方ではあるが、ここでそんなに感動することはないだろうと思っていた。

 いくらかの人生を経ると、人は誰でもそうかもしれないけれど、自分のためだけでは、たとえ辛い時でも嬉しい時でも、おいそれと泣けなくなってしまうと思う。あの涙は、彼らの真っ直ぐな姿勢から受けた感動と、感謝の気持ちが流させたのに違いない。それにしても……。

 持っていた手ぬぐいで涙を拭うのだが、いくら拭いてもとめどなく溢れてくる。まったく、いつ以来だろう、こんなに泣けるのは。
(たかがこれしきのことじゃないか!)
 頭でそう考えようとするのだが、ちきしょう、あいつら、本当にやりやがったよ、と胸の中から声が漏れてきて、ついに手ぬぐいを目から離せなくなった。
『FOR NORTH 襟裳岬→宗谷岬』
 そうプリントした、記念の手ぬぐい。
 この一ヵ月間、何リットルもの汗を拭い、時にはテントの浸水を拭き取り、時には川で洗い、今では雑巾のようにくたくたになっている。
 ぼくはそいつを両手で思い切り広げ、彼らに向かって、ここがこの長い旅のゴールであることを示した。
 じわじわと、ゆっくり、カヤックのシルエットが大きくなってくる。やけに長く、ゆったりとした、いい時間だった。

 十四時ちょうど。彼らの長かった夏が、終わりを告げた。
 格別な騒動もなく、もちろん花火も上がらず、ゴールのテープさえない。無表情な観光客の列も、相変わらず順番待ちで記念写真を撮り続けている。
 そんな世間たちと次元の大きな壁を隔て、カヤックから下りる者たち。出迎えに海へ入る者たち。
「ああああー」
「やったよおおっ!」
「終わったあー」
「……………」
 どの口からも、短い言葉がポツリと出てくるだけだ。
 例えばたくさんの観衆から祝福されたり、マスコミにチヤホヤされることが、彼らを思い切り喜ばすためには必要だったのかもしれない。あるいはぼくが、そうしたお膳立てをしておいてもよかったか分からない。
 でもこの野暮ったさ。ツギハギでボロボロのカッコ良さに、ぼくは一人静かに拍手を送っていた。

(これでいいじゃない。俺だけじゃないよ。たぶん間宮林蔵さんだって、この無気力人間だらけの世の中で、君たちがささやかに、目一杯光っていることに、気付いてくれるはずだよ。君たちのこの一夏に、社会的な意義なんて皆無なんだろうけど、いつかきっと、それぞれの道に大きな意味を持つだろうと思うよ)
 ごくろうさん。本当にごくろうさん。そんでもって、ありがとう、な。
(終)

裸男たち
「感無量です」と、クールなコタニもクールに言い残した




いやあ、やっと読み終えた。表紙へ帰ろう

え、なに、あとがきまで隠してあるの?