牧師のぼやき

2012年01月22日
未曾有?想定外?いや、それはウソだ!

あたかも偶発的に起こったこととして、この国に住む人々を不安と恐怖に陥れた福島第一原発事故。あれから1年が経とうとしている。「未曾有」とか「想定外」という言葉が飛び交っているが、この言葉こそ、この国に住む人々を間違った方向へ誘導する言葉なのだ。たとえば、地震学の専門家は869年の貞観津波と同じ規模の津波が近年東北を襲うことを警告し、地質学の専門家は、福島第一原発の下を走る活断層の動きについて警告していたが、それらの警告は国や電力会社に受け入れられなかった。また当時、反原発主義者を封じ込めるためには、平和目的で原子力を利用することと、低コストで原子力発電所を建設することが課題となった。工事費用を下げるために行なったのが、もともと海抜35mの高さにあった大地を、工事がしやすいように海面から10mまでの高さまで削って建設されたのだ。建設当時、「低コストで原子力発電所が実現した」と国や電力会社は自慢げ。ところが、こういった専門家の警告を無視し、もともと35mあった高台を25mも掘り下げた結果、高さ13mの津波に襲われ、地価に設置された緊急用のディーゼルエンジンが浸水によって故障。全電力喪失に陥って炉心が溶融し、あの大惨事が起こってしまったのだ。だから、未曾有とか想定外ではなくて、すでに警告が発せられていたのに、それを無視する結果起こった人為的な事故なのだ。いや、事件といっても決して過言ではないのだ。




2011年12月25日
クリスマスはサンタマスではないぞ!

世の人たちが思うクリスマスのイメージというものは、トナカイに引かれたソリに乗ったサンタクロースが、袋いっぱいのプレゼントをもって子ども達に配り歩くもの…かな?サンタクロースは、聖ニコラウスというモデルがいて、彼の命日が12月6日であることから、この日をサンタの日として祝う国もあります。しかし、これは人間がモデルとなっているので、キリスト教ではサンタクロースを礼拝の対象とはしていません。

クリスマスは「キリスト・マス=キリストを祝うミサ」という意味。いつしか、サンタクロースにその座を占有されてしまい、世の人々は聖書に記されたキリストの美しい降誕物語とサンタクロースをドッキングさせて、人が作り上げたメルヘンチックの世界を追求しようとします。

イエス様が、産婦人科の温もりのあるベッドではなく、馬小屋のエサ台で生まれたのはなぜか。それは、私たちの弱さや愚かさや貧しい心を救うためでありました。弱さや愚かさや貧しい心があっても「あなたは、わたしにとって大いなる価値があるんだよ!」というメッセージを語るために、イエス・キリストは今年も私たちの心の中に誕生されました。喜ばしいことではありませんか!!



2011年12月18日
家族伝道・・・難しさのワケ

先月行なった修養会において「家族伝道は難しい」という声があった。仮に、「家族が洗礼を受けることが成功」という考え方があるとすれば、家族がなかなかクリスチャンになってくれないことを、総じて「家族伝道は難しい」と言うのだろうか。ただ1つ言えることは、「家族伝道は難しい」と言うからには、そこにはその人なりの「伝道の仕方」があるということ…その人なりの。だとすれば、「その人なりの仕方」が伝道の難しさを助長しているハズ。

家族伝道とは、何かを教え込むことではない。伝道しよう!と思う人が、そう決心して祈るところに神様の力が働くのだから。神様の働きを無視して「その人なりの仕方」で伝道しようと思えば、それはもはや伝道ではなくなってしまう。なぜなら、神を無視することは神に信頼を置いていないことなのだから。

伝道しよう!神様、どうか私に伝道させてください!と祈る生活があれば、神様はあなたを通して家族への伝道を開始する。信仰は人を媒介にして養われていくもの。母が、そして父が、「伝道しよう!」と心がけた生活をしていれば、家族はその母の姿、父の姿を見ているのだから、あとは節々に「礼拝に行こう!」と誘えば、それでいい。

昨日、部活を終えた長男の迎えに行く時間をすっかり忘れ、約束をすっぽかしてしまった。土曜日は翌日の説教準備に集中する日。それに加え昨日はクリスマス準備会。信仰が人を媒介にして養われて行くと語る私自身が、自ら家族との約束を裏切ってしまった。約束を破る相手から「教会に行こう!」と誘われても、もはやその言葉には重みがない。牧師が忙しいのは絶対に良くない。親の怠惰が家族伝道の失敗であることを痛く思わされた。



2011年12月04日
苦難を背負う者として生まれた方

学者たちはその星を見て喜びにあふれた(Mt2:10)。

学者とは星の研究家たち。今で言う星占い師のようなもの。彼らは、何年か1度に大きな星が現れる時に、偉大な人物が誕生することを意味するといった調べをもっていた。そして彼らは贈り物を持って旅立つ。ところが、この学者たちが携えたものは、実に不吉な贈り物であった。黄金、乳香、没薬。黄金は王(メシア)であることの象徴。乳香は降水の原料。没薬は遺体の腐敗(特に内臓=身体を切って内臓の腐敗を防止する)を防ぐために用いられた薬草。ということは、学者の調べでは単にメシアが誕生することを星によって占ったのではなくて、偉大な人物が不吉な不運を背負う者として生まれるのだ!という調べを突き止めていたのではなかろうか。目の前に見る乳飲み子は、メシアであり、遺体の腐敗防止のために没薬を使い、降水で香り付けることがここで予告されている。実に、イエス・キリストの誕生は不吉な予告と共に誕生している。これが聖書的事実。
長きに亘って教会はキリストの復活を重要にとらえてきた。4世紀のはじめ、このキリストの復活を重要に考えたキリスト者たちが、やはりキリストの誕生も聖書に組み入れよう!と働きかけてきた。ところが、今やクリスマスがメルヘンチックで、おとぎ話のような誕生として捉えられてしまった。また、多くのクリスチャンもその路線に乗っかってしまったために、聖書的事実が風化されたものとなってしまい、教会においてもメルヘンチックなメッセージを語るという怠惰な罪に陥ってしまった。聖書は、キリストの誕生をハッピーバースディを語るのではなくて、パッションバースディとして語っているのだ。キリストは十字架の苦難を背負うために生まれたのだから。





2011年11月27日
家族伝道・・・その前に整えること

クリスチャンは伝道と証に生きている。そのために生活を整え、主の日の礼拝から新しい1週間を歩み始める。整えられない!と嘆く前に、「主よ、どうか主の日の礼拝から整えることが出来ますように!」と祈る。それは御心に叶った祈りなのだから。そうすれば自ずと整えられて行く。

先日、今年の修養会が行なわれた。その中でクリスチャンの伝道と証について話し合われ、特に家族伝道の難しさが話題となった。だが大切なことは、伝道しなければ!と力む前に、己のクリスチャンとしての生活を整えることが大切。あとは祈ること。主よ、どうぞ、家族にあなたの香りを届ける者とさせてください!そのような者として立てるよう御言葉によって養い、育ててください!と祈ること。祈れば必ず整えられる。そして、あとは自分が伝道しなければ!と力むよりも、教会の仲間にゆだねてみることも大切。案外、自分で力むよりも他人に委ねることで、すんなり洗礼を受けた!というケースも修養会で報告された。先ずは何よりも、クリスチャンとしての己の生活を整えることを通して、神様が働かれることを信じたいものです。

ひところ、クリスチャンの家庭からミッションスクールに子孫を送り込むことも、1つの家族伝道のスタイルであったが、今やそういったケースも少なくなって来た。信仰が個人化していることを危惧する!と言った牧師もいる。自分さえ良ければいい!信仰を子孫に自慢できない!・・・もはやそれは信仰ではないのだが。




2011年11月20日
国はもっとチェルノブイリから学ぶべき

おととい、福島市大波地区のコメから国の基準値を上回る630ベクレルのセシウムが検出され出荷停止したとの報道がなされた。国が定めた「暫定基準500ベクレル」こそ、ものすごく高く、殺人的数値なのだが・・・。補償をしたくないという国の考えが見え隠れする…ヒドイ!630ベクレルという数値は遥かにそれを超えてしまった。仮に500ベクレル以下であっても、コメや野菜が出回っていることが怖ろしい。

農水省は、全国の野菜、コメ、果物、魚介類48,000品目の放射性物質の汚染数値のデータベースをもっている。それによると、セシウムには「セシウム134」と「セシウム137の」の数値に分かれている。国が好評し、報道されている「セシウム」とは、このどちらかの数値しか公表していないケースがある。ということは、福島市大波地区のコメの数値も、134と137の合算にすると1,000ベクレルを超えていることも想像できる。

今回、母子ホームステイプログラムの企画に参加し、ある親子が小諸市内に長期滞在している。このママの実家が実は、福島市大波地区。しかもコメ農家だ。戻ってはいけない。戻って、毎日100gのおコメを食べ続けると、毎日10ベクレルのセシウムが累積され、取り返しのつかない大病を患ってしまうことがチェルノブイリでハッキリしている。仕事があるから戻りたい!・・・と戻ろうとするこのご家族に「いや、戻ってはダメだ!子どもの将来が・・・」と説得するのは辛い。嫌われてもいいから説得せねば。



2011年11月13日
送迎車でのひとコマ

タイの洪水によって日本の大企業たちが水に浸かった。日本企業のアジア進出の根底には、「人を安く使う」という発想がある。人を安く使って金儲けをする、そのツケがまわったのではないか?と思うこともある。

先週、幼稚園の送迎バスの運転手がお休みをとったため、私が代わりに3日間運転した。送迎バスの運転をやると、たとえば朝の御代田まで園児を迎えに行くまでの10数分間、または午後の園児を下ろしてから幼稚園に戻るまでの10数分間、添乗している教師との会話の時間となる。ある先生は「園長先生、うちの娘のことでAさんに相談してみたら○○って言うんですけど、それって違うと思うんです。私は□□だと思うんです、園長先生はどう思います?」と言ってくる…なるほど面白い。「あなたが□□だと思うなら、娘さんを信じてあなたの□□を勧めればいいじゃないか!あなたが娘さんを信じなくて誰が信じてあげるの?」・・・「あ、そっか!」という具合だ。会話が楽しくもある。

また、ある教師は長時間労働の厳しさをこぼす…どう考えても働きすぎ。長期休みにまとめて休みを取るよりも、普段から定時に家に帰って身体を休めたい、土日だけでは精神的な疲れがとれない…云々。これはマズイ!過剰労務は人権侵害の域に入る。「人を安く使って金儲け」と同じ。これでは証にならない、かえって教会への躓きになる。タイ進出の日本企業を批判してる場合ではない。でも、よくぞ言ってくれた。「言える相手」として園長を位置づけてくれるのはありがたい。もっと職員を大切にせねば!



2011年11月06日
不携帯電話

金曜日に携帯電話を紛失した。失くした携帯電話がどこにあるかを教えてくれたり、あるいは、第三者に使われないようにロックをかけることが、遠隔操作で行なうことが出来る。これまた便利。しかし、それもまた電源が入っている場合に限る。私の場合は、紛失すると同時に、どうやら本体が破壊されているようで電源が入っていないようだ。

ともあれ、便利なツールが無くなると不便を感じる。だが、黒電話を見て育った世代なので、コードの無いオモチャのような電話機が手元に無いぐらいでは、それほどに動揺しない。逆に、生まれた時から携帯電話を見て育った人には、恐らくこれは耐えられない出来事なのかも知れない。

義理の姉からの手紙に、息抜きのために京都に旅をして日ごろの煩わしさから開放されるも、旅に同行する携帯電話に家族から遠慮なく連絡が入ってきて、「携帯電話を捨てたくなった!」とあった。ふと思い出した。外に出かけている妻の携帯電話に「あれはどうした?これはどこにしまった?」と、相手の都合に関係なく連絡する自分の姿を。おやおや、自分で努力する前に、つい相手の便利さに頼ってしまう始末。

少しでも賢い生き方を取り戻すために、しばらく携帯電話の無い生活を楽しむことに・・・いや、チャレンジしてみよう。



2011年10月30日
牧師養成は教会の役割

福島県の会津地方が「人」としてのベースを育ててくれたのなら、農村伝道神学校は「牧者」としてのベースを育ててくれた。会津は種を蒔き農伝は水を蒔いた。しかし、育ててくださったのは神(教会)です・・・といった具合に。農伝はいわゆる「縦割り」なのが面白い。また農伝での学びは、机上の学問としてではなく、具体的な人々との出会いの中で聖書を読むことだった。この国の中で差別や偏見によって、聖書の言う「生きよ!」とはまるで真逆の環境に追いやられる人との出会いの中で、いい意味で彼らにイジメられながら聖書を読んだ。これは牧師にとって貴重な糧となる。結果、福島を汚したのは誰だ!という叫びになり、放射能心配地域から避難してくる人をサポートする今の活動へと繫がっているのだと思う。聖書の言葉が、世の人々の苦しみに連帯するものとならなければならない。そのベースの養いが農伝にはある。ぜひ、祈りと関心をもって農村伝道神学校を支えて頂きたい。牧者養成を担うのは教会の役割なのだから。


2011年10月23日
品疎な言葉

NHKの番組で「国の暫定基準値を信用できますか?」という質問に、視聴者が「できる=11% できない=64% どちらとも言えない=25%」と答えた。番組を見ている視聴者からのアンケートなので、回答者の年齢層は特定できない。これがもし小さなお子さんを持つ母親であれば、結果は違っていたハズ。

そもそも暫定基準値という言葉がオカシイ。「暫定」というのは「とりあえず」という意味だ。この言葉のトリックが国の貧しさを露呈している。人は「とりあえず」で生きてるのでもなければ、「とりあえず」で子育てをしているのでもない。

そう言えば、原発事故直後の放射線量について、枝野官房長官(当時)が「ただちに健康を害する数値ではない」と言っていたのが印象的。この言葉を裏返すと「じわじわと健康を害する数値」と言っているようなもの。

政府が品疎な言葉を遣っているおかげで、この国に住む人々はもっと賢くなり、先を行っているような気がする。



2011年10月16日
怒りのパワー

これは正しい!と思うことを推し進めるには、時に怒るほどの信念が無いと前に進まない。

この夏、茨城県東海村から来られた母子がいる。お子さんは2人とも女児なので、放射能による健康被害リスクは男子の2倍もある。しかも、東海村というのは1999年にはJCOという核燃料製造会社の原子力事故があり、今回の福島第一原発事故による「汚染」とが重なり、高濃度の放射能「汚染」地域である。先週の水曜日、長期避難のための住居を探しに、この母親が住居の下見のために小諸へやって来た。

雇用促進住宅は財団法人雇用振興協会の管轄。ここが窓口になって2013年3月までは被災証明があれば無料で生活が出来る。なのに、小諸市だけは小諸市総務課が窓口になっている。しかも、福島県民以外の人はダメ!と言う。私はまた怒ってしまった。しかし言葉は優しく…放射能に県境はない!茨城、栃木、千葉、東京でさえも放射物質が飛び交ってる!何とか上に話をもって行って欲しい!説明ならいくらでもする!実績をつくって小諸市の活性化を!と、総務課長以下5人の市職の前で頭を下げても、答えはNO! とても悲しい。具体的に困ってる人が私の隣りにいるのに、あまりにも冷たい仕打ちだった。

数時間後、私の携帯電話が鳴った。電話の相手はその総務課長。「今回は特例でそのご家族を受け入れましょう・・・但し、公にしないでほしい!」と。

これは正しい!と思うことを推し進めるには、時に怒るほどの信念が無いと前に進まない。それは信仰継承にも言える。私はこの怒りをキリストから学んだ。



2011年10月09日
汚したのは誰だ!

“美しい福島を汚したのは誰だ!誰が福島をこんなにしたんだ!本当に本当に腹が立つ!”
人気俳優の西田敏行さんはそう叫んだ。西田さんは福島県郡山市の出身。この発言を、西田さんは先日夜9時のNHKニュースのインタビューでこう振り返っていた。「おなかの底に、地底のマグマのように、怒りの気持ちがあり、それがこれからの活動のエネルギーになる」。インタビューを受ける西田さんが、津波に流される子どものエピソードを語る途中、涙で声を詰まらせた。そのとき私もドッと涙が溢れた。私も、その西田さんのコメントを聞きながら、かつての自分を育ててくれたあの場所が破壊され、心の中の大切な宝が無理矢理奪い取られたような痛みを、トラウマのように思い出したからだ。

郡山市からほど近い喜多方市で私は生まれた。その後、埼玉と東京の県境の町で育ったものの、やっぱり都会のインテリ臭が嫌で嫌で、中学三年から家族を離れた。再び単身で会津で暮らし、住民票も1人だけ会津に移して、地元の高校で青春時代を過ごした。福島は私を育ててくれた。四季折々の綺麗な大自然。素朴な人々の温もり。今、その福島が「汚染」という言葉で表現されている。

愛する我が子の手を離してしまい津波にさらわれる。そんな辛く苦しい体験をした人々へ容赦なく降り注ぐ高濃度の放射能。この状況を、「汚染」という言葉で表現される。福島はそんなに汚いのか!そんなに汚れてるのか!自分の愛するものを“汚れ”という言葉で表現されてしまう憎らしいほどの辛さを、一体誰が理解できるのだろうか。安全圏に身を置きながら論評するのは簡単。無意識に“汚染”という言葉も飛び交う。だが、せめて私はカッコつけて・・・いやいや「 」をつけて表現したい。「汚染」と表現することで、自分の心にこの痛みを持ち続け、またこれをエネルギーにしながら、「汚染」と言われ続ける人々の夢と希望のあるプロジェクトを、みんなで実現させて行きたい。まだまだこの国には夢と希望があるのだから。別々の形だが西田さんも頑張ってほしい。私も頑張りすぎずに頑張るから。

放射能「汚染」には県境はない。国境もない。福島県から発したものであっても、県を越え、国を越えて連帯できる人々と手を取り合いつつ。



2011年10月02日
国の陰謀・幕引き

政府は、福島第一原発から半径20km〜30km内の緊急時避難準備区域を解除した。そこには、南相馬市、広野町、川内町、田村市、楢葉町の5つの市町村がある。しかしそこは、住民が喜んで帰ることの出来る状況ではない。かなり高い放射能線量があるから。国が放射能を除染するという方針を決めたのなら、先ずは半径20km〜30km内の除染を行なって、線量が下がったという事実を確認することで住民を安心させ、それから住民を戻すのが本来のやり方ではないだろうか…私自身は除染が効果的とは思ってはいないが。しかも、未だ高い空間線量があるということは、年齢が小さければ小さいほど、また女の子であればなおらさ、遺伝子が傷つけられ、白血病を発症するリスクが大きくなる。あまり報じられていないが、放射物質を含んだ水を大量に海に流し込んだことによる海洋汚染に対して、世界は日本に対して国際賠償を求めてくることも予測できる。また、海外は放射能に汚染された国に対する投資はしないであろう。日本はますますお金が無くなって行く。そのために、賠償範囲を狭めようとして、20km〜30km内の住民の避難解除を発令し幕引きを謀ろうとするのか。そう思えてならない。


2011年09月25日
トイレの無い家

日本は“トイレの無い家”と誰かが言っていた。見た目に立派なものを作ってもそれがダメになった時の処理能力の無いことを皮肉っている。日本の原発政策は、事故を絶対に起こらせないとして、事故処理能力についての事前のレクチャーが無かった。地震大国日本において、事故が起きる確率で言うと、低い確率であっても絶対に事故は起こる。今回の福島第一原発事故における問題は事後処理のズサンさが問題となった。たとえばアメリカを例にとると、事故後の処理に関してはそこにエキスパートの人が入って処理を行なう“FEMA(フィーマ:Federal Emergency Management Agency)”という組織がある。このエキスパート集団は、洪水や地震だけではなくて、放射能をも処理するスペシャルチーム。世界各地で大規模災害が起った場合に、状況判断や支援活動が独自の判断できるような権限を持った組織がつくられている。日本にはこれが欠けている。よくよく考えてみると、今回の原発事故に見える“トイレの無い家”は、色んなところにあるのかも知れない。この国の人々にとって“Management”という言葉の理解が乏しく、馴染めないからなのかも知れない・・・と私は思ったりもする。


2011年09月18日
ストレステストは、この国に住む私たちのストレス

情報の小出し。隠ぺい。嘘。マスコミも正直に書けないし語れない。ましてや報道は国の思惑通りに国民を誘導しようとしているとしか思えない。1ヶ月前だっただろうか。朝日新聞の一面に、「全原発で安全性評価と経産相表明」とあった。これはストレステストの結果を踏まえた発表だった。そもそもあのストレステストは電力会社が行ない、それを評価するのは原子力安全保安員。まるで、試験官が答えをえんぴつで書いた答案用紙を、受験生に渡しているようなもの。究極的なやらせテスト。このストレステストによって国民のほうがストレスを感じている。

政治家は放射能のプロではない。政治家が原発事故を自分で判断できるか?と言われれば出来るわけがない。文科省は放射線の年間被曝量を20mSvというキケンな数値に引き上げた。これを受けて、内閣官房参与の小佐古さんの涙の辞任会見はまだ私たちの記憶に新しい。小佐古教授は記者会見で「とんでもなく高い数値であり、容認したら私の学者生命は終わり。自分の子どもをそんな目に遭わせるのは絶対に嫌だ。通常の放射線防護基準に近い年間1ミリシーベルトで運用すべきだ」と訴えた。小佐古教授はICRPという国際機関のプロ。一流の人たちの意見が割れた時に政治は安全サイドをとるべき。政治家は放射能のプロではない。素人は素人なりに安全サイドをとるのが政治のあるべき姿。



2011年09月11日
9・11

9・11アメリカ同時多発テロが起こってから今日で10年。遠く離れた日本に住む私どもにも、世界貿易センタービルにジャンボ機が突っ込む映像が、今も脳裏に焼きついている。
あのテロ事件から10年経ち、その間、首謀者とされたオサマ・ビンラディンが、アメリカ特殊部隊によって殺害された。ビンラディン殺害された今、アルカイダはかなり弱体化している。しかし、だからと言ってアルカイダの行く末だけに注目するのはどうなのだろうか。あのテロ以降も、このアルカイダの思想に共鳴する数多くの過激化組織がそれまでと変わらず生まれ、そして第二アルカイダが力をつけ、軍事訓練を繰り返し、勢力を増強させている。ビンラディンもその象徴の1つに過ぎない。だから、あのテロ以降のアメリカが、過激派の思惑にハマってしまったと見る人もいる。空爆を繰り返し、無差別にイスラム教の人々を拷問し、無作為な虐待によって、ますます過激派を勢いづかせてしまった。
あの同時多発テロ以降、アメリカが誤った方向に進んだことによってもたらされた悲惨な結末について、アメリカの国民の多くは何かがオカシイと感じ始めている。私たちもそのオカシイに共鳴し、共に主の御心を祈る者でありたい。誰が悪いとか、どこの国が悪いと論評するのは簡単だが、私たちは神による世界平和に生きていることを忘れずにいたい。