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2012年1月15日 加藤英治牧師   

「引き受けた」

 

創世記第15章1〜18節

           
                                
 パウロの「ローマ人への手紙」を読んで行くうちに、大きな「道草」をして、神の祝福の歴史を旧約聖書からたどっています。
 今日は、その最も中心的な箇所、「アブラハムが信仰によって、神様から義とされた」というところです。パウロがまさに「信仰による義」を示すものとして引用している箇所でもあります。


 神様は、この世界を創造し、一人一人すべての人間、またこの世界に生きるすべてのものに存在と命をを与えてくださって以来、掛け値なしにそれらを愛し、私共を祝福してきてくださったのです。このことは、一ミリたりとも動かなかったし、変わらなかったのです。
 これは、アブラハムにとっても、まさにその通りでした。彼が生を受け、成長し、さらに神様の呼び出しに答えて出発し、そしてここに至るまでも、神様は彼を愛し、彼に真実を尽くし、彼を祝福し続けてきてくださったのです。


 しかしながら、そのような神様の祝福の言葉が全く身に入らない、心に入らない、という時があるのです。アブラハムが神様の言葉を受けて新しい歩みに出発してからしばらくの時間が経ちました。その後に、神様は彼にこうおっしゃったのです。「アブラムよ恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。」神様は、アブラハムに対して、「わたしはあなたをずっと変わらずに愛し、守っているよ、そしてあなたを大いに恵み、満たす」と、その約束を再確認してくださったのです。
 にもかかわらず、アブラハムはこれを受け入れ、喜ぶことはできません。「アブラムは言った、『主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか』。アブラムはまた言った、『あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう』。」
 「私には身の置き所がないのです」、と彼の言葉を訳している聖書があります。彼は神様に文句を言っているのです。「私には実の子どもがありません。たとえ、あなたが私に莫大な財産をくださったとしても、それを継ぐ者がおりません。それはむなしいことです。」「ダマスコのエリエゼル」とは、アブラハムの「しもべ」、奴隷であったと言われます。当時の法慣習として、主人に跡継ぎがいなければ、その奴隷のうちで最もえらい者がそれを継ぐということがあったようです。当時、「子がいない」ということは、「不毛であること、喜びのないこと、望みのないこと」とイメージされ、考えられていたのです。それでアブラハムは、神様の祝福の言葉に対して、これを受け入れ、喜ぶことができず、「私には居場所がありません、子がなく、未来がありません。私には希望がありません」と言い募っているのです。


 このようなアブラハムに対して、現代の私たちなら、「子どもが人生や幸せのすべてではないですよ」とか、「神様との関係が一番大切なのですから」とか言うことができるかもしれません。しかし、アブラハムは「時代の子」として生きていたのです。その時代とその考え方に、限定され、規定され、ある意味では縛られて生きていたのです。彼にとって、少なくともこの時点では、「子どもが与えられる」ということは絶対であり、それなくしては「神の祝福」というものを感じ取り、信じることはできなかったのです。
 でも、それは私たちにとっても同じであると思います。私たちは今この社会の中で生きることにおいて、また個々人として生きることの中でも、いろいろと制約を受けて「これは譲れない、これがなければ、私たちは不毛のままであり、私たちには未来と希望がない、これなくしては、神様の祝福を本当には受け取り、信じることはできない」というい事柄がきっとあるのだろうと思います。


 神様はどうされるでしょうか。神様はアブラハムに譲られます。「この時、主の言葉が彼に臨んだ、『この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです』。そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また、彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』。」
 神様は、アブラハムに対して、「たとえ子がなくても、わたしがいるではないか、わたしとの関係が一番大切ではないか」とは言われなかったのです。むしろ、彼にとって「子どもが与えられらなければ、神の祝福を信じることができない」のであるならば、「わたしはそれを実現しよう、それによってわたしの祝福をあなたに示そう」とおっしゃったのです。「あなたは必ずその身から出る子を抱く。そして、その子があなたの跡継ぎとなる。それだけではなく、あなたの子孫はあの夜空の星のように数多いものとなって栄える。わたしはあなたを祝福し、あなたの人生を幸いなものとしよう。」


 この時、ここに、神の御業が起こりました。神の奇跡が起こったのです。アブラハムは「大いなる跳躍」をしたのです。私がたまに見るテレビ番組の中に、「グラン・ジュテ」というのがあります。バレエ用語で、「大きなジャンプ、跳躍」を意味するのだそうです。人生の転機で大きな決断をし、跳躍をした人を取り上げる番組です。
 アブラハムも、この時まさに「グラン・ジュテ」「大いなる跳躍」をしたのでした。「アブラムは主を信じた。」 「アブラムは主を信じた」のでした。
 状況としては何も変わっていません。急に妻が身ごもったというのでもなく、彼が若返って元気もりもりになったのでもありません。彼は依然として年老い、いくらかあるいはとっても疲れ、あとを継ぐ子はいません。あるのは、神様の口約束と「夜空の星のように」という夢物語のような「保証」だけです。
 それでも、「アブラムは主を信じた」のです。先ほど申し上げたアブラハムの限界と制約と弱さそして不信の罪が、今こそ乗り越えられ、克服されています。「アブラムは主を信じた」のです。他のなにものにも代えがたいものとして、神との関係を受け入れ、神ご自身を信頼したのです。神様の言葉を信じて受け入れ、その御言葉に自分の人生を、自分のすべてを懸けてみようと決断し、委ね、踏み出したのです。この「信じた」という言葉は、「アーメン」という言葉と同じです。それは、私たちのための言葉なのです。


 神様はアブラハムの信仰にお答えになります。「主はこれを彼の義と認められた。」「義」という聖書の言葉は、「内容」よりもむしろ「関係」を表す言葉であると言われます。「神は愛し、祝福し、約束する。アブラハムは信じ、任せ、歩む」というこのご自身とアブラハムとの「関係」を、神は「正しく、確かなもの、絶対確実なもの」として肯定し、堅く確認されたのです。「関係」のことですから、こういうふうに言い表すことができるでしょう。アブラハムは「いっちょうお願いします」と言った、神様はそれに応えて言ってくださった、「よっしゃ、引き受けた!」。


 以前にも引かせていただいた、「ケセン語訳聖書」を出された山浦玄嗣さんという方、この方は東日本大震災の被災者でもあります。津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田氏で開業医をされていたのです。この山浦さんがテレビ番組に出演されていました。その中で、山浦さんは大地震とその後の自らや人々の苦しみを語りながら、福音書でイエス・キリストが十字架で叫ばれた言葉に触れておられました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」山浦さんは、この叫びにこのような思いを聞きとっておられるのです。「最初は神様に向かって駄々をこねる。『なんで俺をこんな目に遇わせたんだ・・』・・・『だけれども神様俺は知っている。あなたは本当にいい方だ。神様!』とすがって『お願いします!』という者を捨てたためしがない。・・・どんな絶望の中にあっても、どんな苦難の中にあっても、神様に悪口を言いながらも・・『神様、私はあなたをしっかりと信じています。信頼しています。あなたは俺を絶対に捨てたりはなさらない。』」神様は「よし、引き受けた」と語ってくださる方なのです、それを信じることで山浦さんもがれきの山となった街にあっても「ようがす、引き受けた」と、ご自分に与えられた働きに邁進していく力をいただいたのでした。


 「信じた」はずのアブラハムですが、この後また神様に尋ねています。「わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか。」「不信仰だ」と言わなくてもよいのです。私たちは信仰に立ち続けるならば、何度でも神様に尋ね求めることが許されています。
 神様は答えて、当時の契約の儀式を執り行ってくださいます。家畜を連れて来て、かれらを申し訳ないですが二つに裂き、それぞれを間をおいて並べます。その家畜の間を、契約を結ぶ二人の当事者が通り過ぎる、それによって「私たちは契約をを結びます、もしどちらかが約束を破るなら、その人はこの家畜のように二つに裂かれてもかまいません」という意思を表わすのです。
 この儀式の用意ができました。すると不思議にも、突然アブラハムを猛烈な眠気が襲います。彼は深く眠り込んでしまいました。これは創世記の初めで、アダムが対等な助け手であるエバを神様から創り与えていただいた時に、経験した「深い眠り」、神からの眠りなのです。この間に「煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた」。これは神の臨在のしるしです。神様だけが、裂かれた動物の間を通り過ぎられた。
 これは対等な契約ではありません。一方的な契約です。神様だけがリスクを負う、神様だけが犠牲を払う、神様だけが命を懸ける、恵みの契約なのです。とは言え、アブラハムも果たすべき務めを負い、苦しみを受け、試練の道を歩むでしょう。でも、この約束を守りぬき、実現なさるのは、どこまでいってもただただ神おひとりなのです。神はまことに最後の最後まで、あのイエス・キリストの十字架に至るまで、そこで徹底的に苦しみ、ご自身の命と存在をも犠牲にするまで、この約束を守り抜き、祝福を実現してくださいました。
 パウロは語ります、「それは、アブラハムだけのためではなく、私たちすべての者のためだ」。そうです。私たちのための祝福、私たちのための神でいてくださるのです。このお方が私たちにも祝福を語り、「よっしゃ、引き受けた」と私たちの信仰を受け取ってくださるのです。信じ、委ね、従いましょう。


(祈り)
アブラハムの神、そしてイエス・キリストの父なる神、天にましますわれらの神よ。
 あなたの祝福の御心と約束を心から感謝いたします。どうか、私たちも信仰をもってそれに応えることがゆるされますように、あなたの力と導きをお与えください。また、祝福された者にふさわしい生き方を、一人一人と教会に証しとして与えてください。
信仰と人生の導き手また完成者なる救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。 
      


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