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2012年2月5日 加藤英治牧師
あろうとする神によって
出エジプト記第3章1〜15節

                   
               
 神の祝福の歴史を、旧約聖書からご一緒にたどっています。
 神様は、まず「祝福の基」としてアブラハムという一人の人を選び、導かれました。しかし神の御心は、このアブラハム一人に留まるものではなかったのです。現に、神はアブラハムに言われました。「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」「地のすべてのやから」、全世界のすべての人々を、神はアブラハムから始まる祝福の歴史によって祝福しようとしておられるのです。

 「すべての人々」、しかしまた、いきなりそこに向かうのでもありません。神様は今、「すべての人々」に向かう前に、その「すべての人々」を目指しつつ、一つの民を選ばれます。それは、「強く、数多い民」ではなく、「弱く、貧しく、苦しめられている民」です。その名は「イスラエル」です。
 イスラエルは、アブラハムの子孫たちです。彼らはその頃、当時の大帝国エジプトで奴隷の労働を強いられ、苦しめられ、おとしめられていました。彼らはその苦しみのあまり、先祖の神を呼び、叫んだのでした。「アブラハムの神よ、われらを助けてください」と。
 この呼び声に応えて今、神は一人の人モーセをお呼びになります。1〜4「―――神はしばの中から彼を呼んで、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼は『ここにいます』と言った。―――また言われた、『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』。」モーセは、その時失意の中におりました。かつて若い頃、イスラエルの民を助けようとして挫折し、逃亡してきていたのです。挫折し失意の中にある者、神はそのような者をあえて選び、声をかけ、ご自身の使命に用いてくださるのです。
 神は言われます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。」神はイスラエルを「わたしの民」と呼ばれます。神様のまなざしは、今や「民」、人々に向かっています。モーセはその「民」の代表であり、その「民」イスラエルは「すべてのやから」に属する私たちの先駆けなのです。神様はその祝福の御心のゆえに、今イスラエルを「わたしの民」と呼び、彼らを助けようとなさいます。それと同じように、神は私たちをも「わが民」と呼び、私たちをも助けてくださる方なのです。
 この神が、今モーセに命じ、また約束なさいます。「いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプト人が彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう。」ためらい尻込みするモーセに神は重ねて語られます。「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう。」

 モーセはこの重大な使命を与えられて、恐れ、おののきました。それで、さらに神に求めました。「モーセは神に言った、『わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに「あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、何と答えましょうか』。」彼は、神様のお名前を尋ねたのです。「名は体を表わす」と言うように、古代の人々は「名前」はそのものの本質・実体を表わし示すと考えていました。モーセは、「もっと神様のことを知りたい」「神様とは、どんな方だろうか」と思ってこう尋ねたのです。
 このモーセの切なる求めに、神様は気前よく答えてくださいました。そうして、ご自身がどのような神であり、どのような方なのかということを明らかに開き示してくださったのです。「神はモーセに言われた、『わたしは、有って有る者』。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。」
 「わたしは有る」、この名前の中に、アブラハムを選び、イスラエルを救い、私たちをも祝福へと招いてくださる神が、どのような方であるかが示されています。

 「わたしは有る」、それは何よりまず「絶対に確かな存在」を表します。「わたしは有る」、神様こそは自信をもって、確信をもって、常に、いつまでも断言することのおできになる方です。私たちは違います。「私はこの朝、ある、生きている。しかし、明日、いや今晩、私はあるだろうか」、そのことを確信をもっては決して言うことのできない、許されない者なのです。「あるだろう、あると思う、あるんじゃないか」。しかし、神、この方こそは確かにおられます。「わたしは有る」。この方こそ、すべてのものをご自身の御言葉をもってお創りになった創造者であるからです。何ものもこのお方の存在を脅かすことはできません。自然・宇宙の限りない力も、パロや王たちの絶大な権力も、目に見えない諸々の悪の力、死の力さえも、このお方の存在の確かさにとは、全く比較になりません。このお方が、何ものにも打ち勝つその存在の力によって、今こう言われます。「わたしは有る」。

 「わたしは有る」、この名前はまた「常に愛し、共に生きようとする方」を表わします。この名はまた「わたしはあろうとする」とも取ることができます。「意志を伴う未来」なのです。神様はただおられるのではありません。目的と意志をもっていようとなさるのです。「わたしはあろうとする」、どうあろうとなさるのでしょうか。神はモーセに言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる」。神は、このモーセと共に、罪と挫折により失望し、沈み込んでいるこのモーセと共にいるために、彼をこそ用いてイスラエルを救うという恵みの業をなさるために、存在しようとなさるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」、神はまたイスラエルと共に、エジプトで痛めつけられ、苦しめられ、うめき、泣き、叫んでいるあのイスラエルと共にいるために存在しようとなさるのです。
 なぜでしょうか。「愛している」からです。彼らを心から愛しておられるからこそ、何ものも覆せない意志をもって神はおっしゃるのです。「わたしはあなたと共にあろうとする」。

 そしてまた、「わたしは有る」、この御名は「愛のゆえに、自由で、大胆に行動し歩まれる方」を表わします。この名はまた「わたしはなろうとする」と取ることもできます。ヘブライ語で「ある」と「なる」とは同じ言葉です。「わたしはなろうとする」、神はイスラエルを愛される、愛するがゆえに、ただ「共にいる」のではない。「わたしはなろうとする」、神はモーセのために、イスラエルのために、「何にでもなろう、何でもしよう、どういう者にでもなろう」とされるのです。神はイスラエルのために言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地―――に至らせようとしている。」神は、愛して共にいようとする者のために、「見る」ことができる、「聞く」ことができる、「知る」ことができる、「下る」ことができる、「救い出す」ことができる、「導き上る」ことができる、「至らせる」ことがおできになる。
 聖書の神は、愛する者のために「何にでもなろう、何でもしよう」となさる神です。神は罪人である私たち人間を救うため、ついに私たちと同じ人間となってしまわれました。そして、その私たちのために十字架の道を歩み、ご自身を死に渡してしまうことさえなさったのです。そしてついに、その死んだイエスを死に勝利させて復活させることさえなさったのです。それが、私たちの主イエス・キリストの神なのです。

 「わたしは有る」「わたしはあなたと共にいる」と語られる神が今、モーセをイスラエルのためエジプトに向けて遣わされます。「さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう。」この神に出会っていただき、ふれられる時、人は思いもかけない力を受け、新たな目的と使命を与えられ、揺るがない希望を目指して送り出され、出て行く者とされるのです。
 その時、モーセも、そして私たちも、この神により、少しだけ神様に似た者とされるのです。
 私たちも信仰によって言います。「私は、主にあって、あることが許される」。この神が共にいて、私を生かし、守ってくださるがゆえに、わたしはパロの権力も、エジプトの病も災いも、死の力さえも恐れないで、「ある」ことが許される。神が望み、許される限り、私は生き、私はある。
 また「私も、主にあって、共にあろうとする」。この神が私と共にあり、私を愛してくださるがゆえに、私も神が出会わせてくださる人々と共に生きよう、互いに愛し合おうと願い、努力し、それを祈り求めて生きることができる。モーセは、この後、頑固で不従順なイスラエルの民と、荒野の道を最後まで共に行ったのです。
 そして、「私も、主にあって、なろうとする」。モーセは、この神に従って、思いもかけない者になり、何でもすることになりました。いやなエジプトに行き、パロに語り、預言者となり、奇跡を行い、民の牧者となり指導者となりました。イエス・キリストの使徒パウロは、「福音のために、あらゆる者となろうとし、なった」と語りました。私たちも、この神に招かれ、用いられるがゆえに、思いもかけないことをし、予想もしなかった者となることが求められ、導かれ、そしてそうする力が与えられていくことでしょう。

 「あろうとする神」、このお方が、私たちにとっても祝福してくださる神なのです。私たちもこのお方によって伴われ、この方の祝福の御心を伝え、示し、分かち合うべく、教会に連なる一人一人として、ここからまた遣わされて行くのです。

(祈り)
「わたしは有る」と語り、ご自身を示し、与えてくださる神よ。
 あのイスラエルにご自身を示していくださったように、不確かな存在でしかない私たちに、あなたは「わたしは有る」「わたしは共にいる」と語り、私たちを生かし、支え、導いてくださいます。このあなたの祝福の御言葉を心より感謝し、御名をあがめます。
 どうか、私たちをもあなたの祝福の証人として、私たちに残されている「エジプト」へと私たちを遣わし、その地その場所において私たちをも用いてください。
福音と宣教の主、教会のかしらなるイエス・キリストの恵み深い御名によって祈ります。アーメン。
                          


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