2012年2月19日 加藤英治牧師
この方をただ信じる
ローマ人への手紙第4章9〜25節

                   
               
  パウロは、ずっと「義とされる」ことについて語って来ました。「義とされる」とは、一言で言って「神の前に正しく、幸いに生きられる」ことです。「神の前に正しく」、そして「幸いに生きられる」、この二つが大切です。聖書によれば、「神の前に正しく」ということなくして、人の「幸い」「幸せ」はないのです。そのためには、何が必要なのか。パウロはずっと伝えてきました。「このようなわけで、すべては信仰によるのである。」「信仰によって」、それが答えです。
 ところが、これとは正反対の答えを考える人がいるのです。それは「律法によって」ということです。「律法」とは、様々な大小の戒めです。それを守れば、それを満たせば、「義とされる」。それは、ユダヤ人にとっては、旧約聖書のまさに「律法」でした。それをもう少し広げて、「資格」「能力」「条件」と言ってもよいでしょう。それらを満たせば、それらをクリアすれば、それらを超えれば、あなたは「よし」とされ、評価され、幸せに生きられる。私たちはそれを「常識」「当たり前」と考えていますし、生まれてこのかたずっとそう教えられ、自分でもそれに従って行動してきました。この世の様々な分野ではもちろん、宗教、信心の領域でも、多くの場合そのように語られます。あなたが、多くの良い行いをしそれを積み上げるなら、あなたが熱心に信じ長く祈るなら、あなたが多くの犠牲を払い捧げるなら、あなたは神様に愛され、幸せになれる。
 そのような道が本当に私たちを神のもとに導き、また幸いにしてくれるのだろうか。パウロは、自分の生涯を振り返りながら「そうではなかった」と思うのです。彼は誰よりも熱心に律法を守り、それに従って生きようとしました。その果てに来たものは、自分や他者を追い込み苦しめることであり、ついには神の御子イエスを迫害することだったのです。
 同じような経験を、古今東西多くの人たちがしています。ルターという人、また日本では内村鑑三という人、彼らは一生懸命自分の力で努力し、正しくそして幸いに生きようとしました。でもその結果は、ますます自分のみじめさと悲惨さを思い知るだけだったといいます。彼ら「天才」と言えるような人たちでさえそうなのですから、私たち「凡人」はなおさらのことです。「男はつらいよ」という映画のテーマソングにこんな歌詞がありました。「奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の 今日も涙の日が落ちる 日が落ちる」。それは、私たちの本当の現実をまさに言い表しているのではないでしょうか。
 今やパウロはこれに対してこう語ります。「いや、そうではない、信仰によってだ」。「信仰」というのは、何か私たち人間が持っている力ではありません。私たちがひそかに持っている力を思いがけなく発揮して、それを高め強めて、そうして神を信じ求め神に従うことができるというようなものではないのです。そうではなく、私たちの側には何もありません。全く何もないのです、空っぽ。それどころか、私たちの中には「マイナス」が、「負債」が、「罪」がある。「義人はいない、一人もいない」。そんな私たちを、外側から、向こう側から、全く何の資格も、能力も、条件も問わないで、神様が一方的に愛し、赦し、よしとしてくださる、これが恵みです。その神の恵みをただいただく、「空の手」を差し出してただいただく、これが「信仰」にほかなりません。「ただ信仰によって義とされる」、それがパウロが語る福音です。

 こういう話をしますと、「本当かよ」という人が出てきます。特に、パウロが相手にしている人たちはそうだったのです。それで今、パウロは絶好の模範、実例を旧約聖書から引きます。それは、聖書の「信仰の父」とも言うべき人アブラハムです。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた。」「ただ信仰によって義とされる、アブラハムがまさにそうであった」というのです。
 パウロによれば、アブラハムはこういう状態でした。「望み得ない」「希望がない」、そして「彼自身のからだが死んだ状態」であった。それはなぜかと言えば、アブラハムと妻サラの夫婦には跡継ぎとなる子どもがなく、彼自身も妻ももうすでに大変な高齢で、常識的に到底子どもを生むことは望み得ないという有様だったからです。古代の当時では、「幸せ」「幸い」ということの、大きな要素として「子孫、子どもを持つ」ということがあったのですね。だから、アブラハムたちは、当時の基準で言うなら、絶対に幸せにはなれない人たちだったのです。
 それだけではありません。きっとアブラハムは、「自分はこの世で幸せになれないだけでなく、神様の前に正しく生きることもできない」ということを、思い知らされていたのではないでしょうか。旧約聖書を読んで行きますと、アブラハムの生涯は、決して完全無欠なものではなく、それどころか、彼は様々な失敗をし、また周りの人たちを傷つけ苦しめる行いをしてしまったことがわかります。さらには、彼はしばしば神を信頼することができませんでした。そのような中で、アブラハムは自分自身の不信仰と不真実の罪を痛く、身をもって思い知らされていたのだと思います。だから、彼はこう思っていたことでしょう。「私には何もない。神様の前で正しく、そして幸いに生きることのできるようなものは何もない。本当に何一つない。」
 しかし、このアブラハムに神様は約束されたのです。「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした。」何ということでしょう。未だ跡継ぎを持たず、その願いの実現はもはや絶望的であるこのアブラハムが、「多くの国民の父」となるとは。でも、聖書は驚くべき事実を告げています。「アブラハムは主を信じた。」彼は、彼に向かって祝福の約束を与えてくださった主なる神を信じたのです。パウロによれば、アブラハムの信仰はこうでした。「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」
 「無から有を呼び出される神」とは、この世界を創られた神です。「はじめに神は天と地とを創造された」のです。神様は何もないところから、この世界とすべてのものを創られました。「神は『光あれ』と言われた、すると光があった」のです。これはすごいことです。私たちは何もないところから、何かを作り出すことはどうしてもできません。でも、神様にとっては「何もない」ということは、全然問題にはならないのです。
 アブラハムは、この神を信じて、こう考えました。「あの時あのように天地をお創りになった神、無から有を呼び出された神であるならば、その神にとって、この私に何もないということは、全く問題ではない。この私に力がないことも、この私に希望がないことも。あの時、天地を創造された神は、今も同じ方として生きておられる。神が望み、言葉を発してくださるならば、死んだような私たちからさえも新しい命が生まれることが許される。」彼らは、そのように神を信じたのでした。
 この信仰を神は受け入れ、「よし」としてくださいました。「アブラハムよ、あなたはわたしの前に正しく、幸いに生きることができる。」そして、さらにこの「信仰」は「復活の神」への信仰につながります。何もないこと、全く望みがないことが神にとって全然問題にも妨げにもならないのなら、人間の死すらも神の前にはなんでもないということになります。ならば、神が御言葉とその真実を守りたもうならば、神が「よし」とされる人は死から命へと「復活」させられて当然なのです。ある人はこのように語ります。「神が私たちを義と呼ぶなら、私たちは義とされている。神が私たちを生けるものと呼ぶなら、私たちはいのちのうちに立っている。」

 そして今、パウロは私たちに向かって語ります。それは何か、アブラハムという昔の人の昔話ではない。「アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父」なのだ。「『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。主はわたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」
 アブラハムに向かって祝福の約束を語り、彼と共に生きてくださった神が、今イエス・キリストという方によって私たちにも祝福を語り、私たちと共に生きようとしてくださいます。主イエスは、私たちの罪をすべてご自身が引き受け荷なってくださったのです。私たちの不信仰、不真実をものともせず、私たちを愛し、赦し、受け入れてくださったのです。さらに主イエスは、死の力に打ち勝って復活されました。このお方を通して、私たちのためにも、神と共に生きる新しい命が開かれ、与えられたのです。
 「わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。」この方を信じる、そうして神の前に正しく、幸いに生きることがゆるされる。何がなくても、何もなくても、たとえ罪があっても、いや事実罪があっても、どんなに問題があり、どんな悩みと苦しみを抱えている人であっても、このお方、イエス・キリストの神はその人を「よし」とし、神ご自身との関係を回復し、神の前に正しく、幸いに生かしてくださるのです。「奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の日が落ちる」と嘆き、肩を落としている人を、神は力づけ、立ち上がらせ、新しく生かしてくださるのです。
 このお方をただ信じるのです。「わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義認められるのである。」この福音を、私たちも与えられています。アブラハムに続いて、アブラハムと共に信じ、生きる私たち一人一人、またこの恵みの言葉を分かち合い、また語り示し伝えていく教会として、これからも導かれてまいりましょう。

(祈り)
アブラハムの神、イエス・キリストの父なる神、そして私たちの父なる神よ。
 アブラハムに与えられ、御子イエス・キリストを通して、私たちのところにまで来たあなたの祝福の約束を心から感謝し、御名をあがめます。
 何もなくても、いや罪があっても、イエス・キリストのゆえに、私たちを愛し、赦し、よしとしてくださるあなたの恵みと真実を、私たちも信じ、受け入れ、あなたに従って歩みます。どうか、私たちにも、あなたを信頼し、歩み出す信仰をお与えください。また、あなたへの信仰にふさわしい生き方と道を備え、開いてください。ここに集われた一人一人が、あなたの福音の証人としてそれぞれの場に遣わされ、用いられますように。
人生と信仰の導き手また完成者、教会の宣教と証しの主、イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。


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