2012年2月26日 加藤英治牧師
なおさらの愛に生かされて
ローマ人への手紙第5章1〜11節

                   
               
  信仰は山登りに似ている」と言った人がいます。「岩をよじ登り、草を分けて、汗をふきながら、ようやく一つの高みにたどりついたら、今までは見えなかったように思われた天地が、一度に開けてきたように見えてくるのです。青空が地平線まで広がり、緑の平野を一望の下に集めることができるのです。」(竹森満佐一)私たちの信仰にはそのような瞬間がある。またこのパウロの「ローマ人への手紙」も、そんなふうに書かれていると思います。今までイエス・キリストの福音についてるる語ってきた、それが一つの締めくくりに達して、一つの高みにたどり着いて、そこから今までの道を振り返りながら、新しい高みを目指す道を望む。今日の部分はそんな所です。

 今までパウロは、神は救い主イエス・キリストにおいて、イエス・キリストを通して、私たちに良いことをなし、良いものをくださったと語って来ました。その「良いこと」「良いもの」とは何なのでしょうか。イエス様が私たちにくださった「良いもの」「良いこと」とは何でしょうか。
 それは、「関係」です。「神との良い、正しい関係」、それをイエス・キリストは私たちのために開き、与えてくださったのです。「関係」、これこそが大切であり、決定的なのです。「義とされる」というときの「義」とは、「内容」ではなく、「関係」に関する言葉です。ここでよく誤解をする方がいます。クリスチャンになるとは、「いい人」になることだ。「もう少し努力しして、まともな人間になってから、クリスチャンになります」という人がいます。「もう少し聖書や信仰のことが分かって、自信ができたら、バプテスマを受けます」という人がいます。「関係」ではなく、「まともな人間、良い人になる」とか「聖書や信仰の知識」とか「自信」というような、「内容」をもらうのだと思うのです。
 ところが、キリスト信仰では、少なくともその初めは「内容」は何も変わらない、別に良い、すぐれた、強い人になるのではないし、なる必要もないのです。「わたし」は「わたし」のまま、そのままです。そうではなく、「関係」が変わる。「わたし」は「わたし」のままで、弱い、不信心な、罪人のままで、神様が、神様の方から「わたし」と良い、正しい関係を結んでくださる。でも、このことこそが私たちに新しい命を与え、人生を変えるのです。これが、主イエスがご自身のすべてを懸けて私たちに与えてくださったことなのです。
 このことをパウロはこのように表現しています。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」今私たちは神との「平和の関係」の中に、何のこだわりも、責めも、わだかまりもない関係の中に置かれているのです。また私たちは「恵みの関係」の中に、神様によって何の条件も、能力も、資格も問われずに愛されるという関係の中に導き入れられているのです。そして私たちは「神の栄光にあずかる」、神様が私たちを見捨てずに導き、必ず目標・完成・ゴールに至らせてくださるというという「希望の関係」の中を導かれているのです。この「関係」、この神様との「太く、堅く、確かなパイプ」をパウロは喜び誇るのだと語るのです。

 さて、「関係」を問い、ただし、確かめるものがあります。また「関係」は、問われてこそ確かめられ、確かなものとして示されると言えます。それは「患難」と呼ばれるものです。またそれは「試練」とも「苦しみ」とも呼ばれます。ここでも誤解する方がいます。「クリスチャンになったら、何の苦しみも悩みも無くなる」。そんなことはありません。この世の常として私たちには苦しみがやって来ますし、ひどく悩みもします。また、信じるからこその「試練」「患難」ということもあります。私たちの信仰というのは、そういう煩わしい一切のものから逃れて、ひたすら静かに平穏に暮らすというようなものではありません。むしろ、そういうこの世の「嵐」と「荒波」のただ中を、激しく動かされながらもしっかり支えられて、力強く乗り越えて進んで行くことができるものなのです。
 この道筋を、パウロはこんな風に表します。「それだけでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを知っている」。「患難をも耐える」「我慢する」というのではないのです。それを「喜び」「誇る」とまで言う。またこれは、「艱難汝を玉にす」「苦しみの中で、人は強くなれる」というような精神主義、能力主義でもないのです。「苦しみをもプラスにできる人がいる」というな考えでは、そこには「できる人」と「できない人」が生じます。
 これもまた「関係」の話です。その「患難」、試練、苦しみを前にして、この「わたし」は弱いままです。もし「わたし」だけであるなら、こうなるほかはないでしょう。「患難は不平を生み出し、不平は不和を生み出し、不和は自暴自棄を生み出し、自暴自棄は絶望と破滅に到る。」しかし、そんな私たちを、そんなただ中を、神が、わたしを愛し、わたしを愛し抜かれる神が、その決して変わらない真実をもって、その力ある御腕をもって、私たちをこのように導いてくださる。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」。そういう「関係」のストーリーなのです。だから、確信をもってこう言える、「そして、希望は失望に終ることはない」。

 どうしてでしょうか、どうしてそこまで言えるのでしょうか。その答えは「愛」です。「なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」この「関係」を通して、この「太いパイプ」を通して、神の愛が私たちの心に脈々と流れこんで来る。
 「神の愛」、それは比べるものない愛、途方もない愛、度肝を抜く愛です。私たち人間の愛は、たいていこうです。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいないであろう。」私たちは、通常「人のために死ぬ」などいうことはできません。「正しい人」のためであっても、なかなかそんなことはできない。それどころか、ちょっとした犠牲を払うことさえ煩わしいと思える、まことに自己中心的な者なのです。そんな私たちでも、時に人のために犠牲を払ってもいいと思えることがある。「善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。」、少し広げて、私たちに親しい人、何かしか魅力があり慕わしい人、見どころがあると思える人のためには、何かをしてあげたいと思う、進んで犠牲を払う。それだって、「死ぬ」とうほどの大きな犠牲となると、「あるいはいるであろう」という程度なのです。
 ところが、神の愛はこうだというのです。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者のために死んでくださったのである。」「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」「わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けた」。「弱さ」とは、あらゆる人間的な「弱さ」であり、「欠点」であり、「限界性」です。意志や気力の弱さであり、なかなか前向きになれず暗い心を振り払えないことであり、自信が持てず自分のことを決して良く考えられないことです。あるいは、自信過剰であり、傲慢であり、他者を裁き押しのけても何とも思わない、そして自分とその将来について慢心していることです。また、「不信心」とは、宗教的・信仰的なあらゆる弱さと不真実を表します。祈れない心であり、神に従うと言いながらそれを貫けないことであり、神を信じることが隣人を愛して共に生きることに結び付かなず時には矛盾してしまう自己中心性であり「都合の良さ」であり弱さです。そして極め付き、私たちは神の前に「罪人」であり「神の敵」なのです。神に徹底的に逆らい、根本的に離れ背いている者なのです。
 そんな者たちのために犠牲を払うどころではない、神の御子イエス・キリストは、そんな私たちのために、ご自分の命を投げ出し、犠牲として、死んでくださった。それは、私たちのあらゆる弱さ、不真実、自己中心、愚かさ、そして罪とそのあらゆる深みと暗さをことごとく自分の身に引き受け、荷うことでした。それがあの十字架の道だったのです。このようにして神はその愛を表された、これが神の愛、これこそ神の愛だ! いったいぜんたいこんな愛って、ありますか。まさに、まったく比類のない、「度肝を抜く」愛です。

 この「愛」に基づいて、パウロは今信仰の勝利の歌を歌います。「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」
 それは、まさにこの「愛」によって導かれていく「関係」を表しています。それは「なおさらの愛」なのです。それは、私たち人間の愛、この世の愛のように、「きのうは愛したけれど、今日は愛しているけれど」、いつか色あせ、力が弱くなり、やがては衰え無くなってしまうようなものでは決してありません。それは、「かつて、あの時、あそこでの救い」に基づいて、「今このように導き入れられ、置かれ、愛されている」ゆえに、「なおさら」さらに深まり、拡大し、高まって行き、ついには完成にまで至るのです。
 この「なおさらの愛」によって生かされ、導かれていく神との「関係」こそ、私たちの信仰であり、恵みによって導かれるその生涯なのです。そして、この信仰、この恵みは、ただ一つの究極的な目的に生き、またそれを目標とし、希望として、ついにそれに達するのです。「そればかりでなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」「神を喜ぶ」、これこそ私たちの「すべてのすべて」であり、やがて本当にまるごと私たちの「すべてのすべて」となるのです。
 教会は、この愛によって生かされ、導かれ、それを喜び、分かち合い、伝えて行く者たちの集まりです。そのような教会を建て上げて行く歩みが、さらに導かれていけばと願います。そのような今年度の締めくくり、総会、そして新年度の歩みとなりますよう切に祈ります。

(祈り)
御子イエス・キリストの父、私たちすべての者の父なる神。
 あなたが備え、開き、与えてくださったこの福音、真実な愛、それによって支えられ導かれるあなたとの深く確かな「関係」を心から感謝し、御名をあがめます。
 どうか、私たち一人一人、また私たち教会を、ますますこの福音によって支えられ、導かれ、また信仰によってそれに従い仕えて生きる者としてください。
 教会の交わり・証し・宣教が、ほかならぬあなたによって豊かにされ、用いられるようにしてください。
私たちの信仰と人生の導き手また完成者、教会のかしらなるイエス・キリストの恵み深い御名によって切にお祈りいたします。アーメン。


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