2012年3月4日 加藤英治牧師
比べるもののない命
ローマ人への手紙第5章12〜21節

                   
               
 ローマ人への手紙をご一緒に読んでいます。先週この前のところをお話しして、この5章は今までのところを大きく振りかえっている所だと申しました。その中で問いました。「神はイエス・キリストを通して、一体私たちに何をくださったのか。」先週はそれは「関係だ、神との確かな関係だ」と答えたのでした。今日の箇所も、同じ問いをもって始めることができます。「神は、救い主イエス・キリストを通して、一体私たちに何をくださったのか。」この同じ問いに、別の角度から、もう一つの答えを出したのが、ここだと言えます。
 ではもう一度尋ねましょう。「神は、イエス・キリストを通して、一体私たちに何をくださったのか。」今日、パウロはこう答えます。「それは命だ。神はイエス・キリストの福音によって、私たちに新しい命をくださったのだ。」

 皆さんは、「クリスチャンの生活」というと、どんなことを思われるでしょうか。クリスチャンはこれを「信仰生活」とも申します。 さて、「クリスチャンの信仰生活」、それはどんなものだろうか。どんなふうに何をして生きることなのか。いろいろなことが思い浮かびます。毎週日曜日に教会に行くこと、そこで礼拝をし、献金をし、様々な奉仕をすること。確かにそうです。クリスチャンの人であっても、「ああ、これが信仰生活だ」と思っておられるかもしれません。確かにこれはだれの目にも明らかであることで、それは確かに信仰生活の具体的な側面です。
 しかしながら、それらは表面的なことなのです。その奥に、その中心には、もっと大切なものがあるのです。それは見えないものです。でも、それがなくては信仰も成り立たない、それほどに大切なものなのです。それは、「命」です。
 これは、私たちの一般的な生活からも、よくわかります。私たちが生活するとはどういうことだろうか。朝起きて、顔を洗い、着替えをし、食事をして、仕事や学校に出かける、そこでの働きを終えて家に帰り、テレビを見たりリラックスしたりして、寝る。そしてまた次の日同じように生きる、「これが生活だ」と思っているかもしれませんが、実はこれらのことはその中心にやはり「命」がなくては成り立ちません。同じように、いやそれ以上に、クリスチャンの生き方の中心には「命」がある。
 この「クリスチャンの命」、それは私たちが今まで知っていた、生まれながらに持っている「命」とは、全く違うものです。「新しい命」なのです。それは、キリストを信じる前と後では根本的に違う、そういう「新しい命」なのです。「恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」

 では、その新しい命、「永遠のいのち」とは、どういうものでしょうか、一体どこが、どのように新しいのでしょうか。
 パウロは、このことをとても大きな広い視点からとらえ、描き出しています。つまり、全人類によるすべての人間の歴史という面からとらえ、語ろうとしているのです。それは、単なる個人の考えとか生き方を超えたものなのです。
 パウロは、この壮大な人間の歴史を、きわめて大胆に真っ二つに分けます。その分かれ目は、キリストです。イエス・キリストが来られる前と、主イエスが来られた後、この一点をもって全歴史は真っ二つに分かれ、まるっきり変えられるのです。

 まず、イエス・キリストが来られる前はどうだったのでしょうか。
 それは「アダムから始まる、罪と死が支配する歴史であった」というのです。「アダム」とは、聖書によれば、神様が創られたいちばん最初の人間です。そのアダムが、神の前に罪を犯した。彼は、神から一つの戒めを与えられました。ところがある時、彼は「そんなのに従いたくはない」と思ったのです。言い換えれば「自分で、自分の好きなように生きていきたい」と思ったのです。そうしてアダムは、この戒めを破り、罪を犯します。でも、それはすぐに神様に知られることになり、責められました。すると、アダムは、この罪を一緒に暮らしていた妻エパのせいにし、さらには神御自身のせいにしたのでした。自分の思うとおりに、自分の欲望のためにだけ生き、そのために道を踏み外し、戒めを犯してもそれを貫き、その責任は他者に転嫁してあくまで自分を守ろうとする。これが「アダム」の生き方です。聖書は、実は「すべての人がこのアダムの生き方をしていた」と語ります。「そんな」と思うかもしれませんが、よく考えてみれば、現代でも同じようなことが私たち人間のこの世界に起こっていることを見るでしょう。
 このように私たちが生きてきた結果は、聖書によれば「罪と死の支配」です。人を傷つけ、自然環境を損ない、ついには自分をだめにし、この世界全体をだめにしていく。そういう歩みを、私たちは行ってきたのです。「罪と死の歴史」です。

 そのままであるなら、そのままの歴史が続いていくはずでした。ところが、そこに救い主イエス・キリストがおいでになったのです。この時から、この一点をもって、私たちの命は新しくされました、生き方が変えられました、歴史の中に一つの決定的な違う流れが湧き起こりました。あの「罪と死の歴史」は、このイエス・キリストの到来とその救いの御業をもって切断され、決定的な終わりが宣言されたのでした。「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。」(18)
 主イエスは、私たちとまったく同じ人間として来られたのですが、しかし、その生き方・その命は、他の人間である私たちとまったく違うものでした。そのイエス様の生き方は、この箇所によれば、二つのキーワードで表すことができます。それは「支配」(17)と「従順」(19)という二つの言葉です。「支配」とは、「王として、他の何ものにも支配されずに、自分が支配する」という意味です。「従順」とは、「僕として神に従い、隣人に仕える」という意味です。なんだか矛盾しているようですが、キリストにあってはこれは一つです。キリストは、死をも罪をも恐れず、それらに支配されず、神にのみ従う自由をもってこれらに勝利されました。これが「キリストの支配」です。これは、私たち本来の姿とは正反対です。私たちは、いつも何かを恐れています。人の目、世間体、自分の立場が危なくなること、そういうものを恐れるて、私たちは「正しいこと」を貫くことができないのです。
 そのキリストの自由は、自分を高め益し喜ばせることにではなく、どこまでも神の御心に従い、隣人を愛し、仕えぬくことにおいて発揮されました。これが「キリストの従順」です。主イエスの生涯は、十字架をもって終わりました。それはイエス様が、どこまでも他者のために生きられたからです。この生き方のゆえに、イエス様は多くの人から責められ、苦しめられました。それでも、主はこの道をやめようとはされずに、あの十字架に至るまで死に至るまでも貫かれたのでした。

 アダムはすべてをだめにした。しかし、キリストはそこからすべてを回復されました。しかも、それは単なる「埋め合わせ」「復旧」ではありません。マイナスを埋め合わせてなんとかゼロにしたというようなものではないのです。
 このキリストの道は、あのアダムの生き方を完全に乗り越え、遥かに優って凌駕するのだというのです。「しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。(比べものにならないというのです。)すなわち、ひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストによる恵みの賜物とは、さらに豊かに多くの人々にに満ちあふれたはずではないか。」(15)
 なぜならば、あの主イエスは、十字架で死んでおしまいではなく、罪と死と悪のすべての力に勝利して、神の力により復活されたからです。今も、このお方は生きて、恵みによって支配し、私たちに向かって、私たちのために働いていてくださいます。

 このお方を信じるとき、私たち一人一人の中にも、この新しい命が、比べるもののない命が、「永遠の命」が神のもとからやって来て、流れ込んで来る。そして、私たちを満たし、充ち溢れさせ、そしてそれはこの「わたし」から新しい生き方、新しい道、新しい歩みとなって始められて行くのです。
 入佐明美さんというクリスチャンがおられます。1980年以来30年あまりにわたって、大阪にある釜ヶ崎という日雇い労働者の街でケースワーカーとして働いて来られた方です。入佐さんは、ご自分がその街とその人々にかかわるようになったきっかけをこのように証しされています。「教会に通って話をきいても、はじめのうちは、なかなか信じられませんでした。しかし、四、五カ月たつにつれ、私自身が罪人であるということが示されてきました。イエスさまは、私の罪をゆるすために十字架で死んでくださったのだと信じることができるようになりました。救われたという実感が日ごとに増し、心に何とも言えない喜びがわいてきました。喜びを深く感じるにつれ、この喜びを神様と他者のためにもちいていただきたいと祈るものとしてくださいました。」彼女は、岩村昇医師が働いておられたネパールに行きたいという願いを持っていたのですが、その岩村先生から「あなたは釜ヶ崎に行きなさい」と勧めをいただいて、その地に導かれたのだそうです。30年にわたる入佐さんの働きを見て来た元共産党員の人がこんなふうに言いました。「おれはな、今まであんたの活動をじっとみてきたんや。おれ党員だったけどな、最近、キリスト教を知りたいと思うときがあるんや。釜ヶ崎で働いているあんたを支えている、その宗教をな。」
 私たちにもキリストを信じ知る時に、同じ祈りが与えられます。「主よ、私にも出会うべき人々、なすべき働き、歩むべき道を示し、与えてください。」それが新しい命、「永遠の命」の動きなのです。神はその祈りに応えて、私たちそれぞれにも最もふさわしい道と働きを与えてくださいます。
 宗教改革者ルターは、この私たちの中に起こり、進んで行くキリストの出来事をこんなふうに表します。「キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまた隣人のために一人のキリストとなろう。そして隣人にとって必要な有益なまた祝福と思われることをのみ努めよう。」「わたしもまた隣人のために一人のキリストとなろう」、あまりにも大胆な言葉かもしれません。でも、こうとしか言い表せない、神の善き業が私たちの中に、私たちの間に起こされて行くのです。
 キリストによる「いのち」が豊かに与えられ、あふれ流れて行く教会またその一人一人として導かれて行きますように、切にお祈りいたします。

(祈り)
イエス・キリストの父なる神、私たちすべての者の父なる神よ。
 イエス・キリストによって新しい歴史が始まり、新しい命が起こり、イエス・キリストによって私たちの人生が変えられ、永遠の命が与えられました。このあなたの命を、信仰を通して私たちにもお与えくださり、心から感謝し御名をあがめます。
 どうか、私たち教会とその一人一人をも、あなたの恵みと命の証人として、ここから遣わし、恵みにより支え導き、豊かに用いてください。
信仰と人生の導き手また完成者、教会の主、イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。


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