日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2014年7月13日の礼拝メッセージから

「聞かなければならない声」


マタイによる福音書 7章21〜23節
 

 

  イエス様は、本日の箇所で「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(7:21)と言われました。しかも、やがて来る終わりの日には、多くの者たちが、イエス様に向かって、「自分たちは御名によって色々なことをしてきました」と訴えるのですが、イエス様は、彼らに対して、「あなたがたを全く知らない」と言われるというのです。本当にショックな話と言いますか、「何でなんですか?」と思ってしまうような話なのではないでしょうか。このように言われた人々にしてみれば、「どうしてそんなことおっしゃるのですか?」とか、「こんなはずじゃなかったのに何で?」と思ってしまうような状況なのではないかと思います。

 ただし、そんな彼らの姿を見ながら、私たちの日常でもそういうことってあるんじゃないかなと思ったりします。自分たちなりに思いをもって、正しいと思うことや良かれと思うことをしているつもりなのですが、実際は相手に全然受け取られていなかったり、相手との思いがすれ違ってしまっている…。結果、「何でこんなことになってしまったの?」「こんなはずじゃなかったのに、どうして?」と思うような状況になってしまうのです。私など、そういう失敗がしょっちゅうあるように思います。自分としては、良かれと思ってしても、相手は全然そんなふうに受け取ってくれていない・・・。後々、そんなことに気づかされ、反省させられることがしばしばあります。そんな中、私なりに一つ思わされることがあります。それは、自分には「聞かなければならない声があったのではないか」ということです。もちろん、色々なケースがあるのだと思いますが、自分自身のことを振り返ってみる時、いつの間にか、自分で勝手に「こうだ」と決めつけてしまっている自分がいて、後々から考えてみたら、「あの時、ちゃんと相手に聞いていれば」というようなことがあったりするように思うのです。そんなふうに、私たちの歩みには、「聞かなければならない声」というものがあるにも関わらず、その声を聞きもらしてしまっている自分がいるのではないかと思います。それはイエス様に対しても同じなのだと思います。イエス様に対しても、「聞かなければならない声」があるのに、そういう声に耳を傾けようとせず、自分で勝手に決めつけて、その声を聞きもらしてしまうということがあるのだと思うのです。そして、そんな歩みをしてきた人々が、本日の箇所に記されている人々なのだと思います。

 「そんなこと言っても仕方ない」と開き直りたくなることもあります。しかし、私たちは一つのことを心に刻んでいかなければなりません。私たちが肝心な「聞かなければならない声」を聞こうとせず、自分たちの正しさに固執し続けるなら、そんな歩みの先にあるものは何でしょうか。まさに、そんな人々こそが、イエス様を十字架につけていったのではないでしょうか。イエス様を十字架につけていった人々がどんな人たちだったかと言うなら、それこそ、本日の箇所に記されているような「聞かなければならない声」を聞こうとせず、自分たちの正しさに固執していった人々だったのだと思います。

      
                          (鈴木 牧人)
 
                

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