日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2014年8月3日の礼拝メッセージから

ただ、お言葉をください


マタイによる福音書 8章5〜13節
 
 

イエス様は、本日の箇所で、ローマの百卒長とやり取りをした後、ついてきた人々に対して、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」(8:10)と言われました。イエス様がこれほど、人の信仰に感心されたという記述は他にありません。イエス様は、どうしてこれほどまで百卒長の信仰に感心されたのでしょうか。

 本日の箇所でまず注目したいのは、8:8の御言葉です。ここで百卒長は、イエス様に対して、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と言ってイエス様を自分の家に迎えることを辞退しました。この百卒長のイエス様への態度を見る時、「この人は、本当に謙遜な人だな」と思います。しかし、この百卒長がこんな態度を取ったのは、単なる謙遜からだったのでしょうか。百卒長が、そのように自分には資格がないと語ったのは、彼が異邦人だったからでした。このことを考える時、思うのです。「この百卒長は、よく自分が異邦人であり、そのことのゆえにイエス様を家に迎える資格がないことを認めることができたな」。普通だったら、「あなたは異邦人だ」なんて言われて、「エー」と思ったり、カチンときたりするのではないでしょうか。そんなことを思う時、この百卒長が自分が異邦人であることを認め、それゆえに自分にはイエス様を家に迎える資格がないと告白している姿というのは、信仰がなければできないのだと思うのです。神様を見上げる信仰の中で、砕かれながら、取り扱われながら、自分は異邦人なんだということを示されていったのではないか…。そういうことがなければ、言えないのではないかと思います。


 そのように、本日の箇所で、百卒長が、自分が異邦人であることを認め、「わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と告白した姿に、百卒長の信仰を思います。しかし、私たちが覚えていたいのは、この百卒長の信仰がそれで終わらなかったということです。この百卒長は、自分が異邦人で、イエス様を自分の家に迎え入れる資格などない存在だと考えて、それで終わりではありませんでした。自分は相応しくない、ダメだ、というだけではなかったのです。百卒長は、イエス様に8:8でこのように語りました。「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」(8:8)。百卒長は、自分が異邦人であることを告白し、自分はイエス様を自分に迎え入れる資格もないと告白する一方で、イエス様に望みを置きました。ここに百卒長の信仰の素晴らしさがあるのだと思います。彼は自分の無力さを告白しましたが、一方で、イエス様には力があると告白しました。イエス様が自分たちに働いてくれるなら、自分たちは救われる…。癒されると信じたのです。ここに、この人の信仰の素晴らしさがあるのだと思います。私たちが招かれている信仰の歩みがあるのだと思います。私たちは自分を見れば、誇るものなど何も無い自分がいます。信仰を持つがゆえに、そのような自分自身を気づかされることがあります。しかし、その中で、イエス様に希望を抱くのです。そのような信仰に生きることを、「恵みに生きる」というのです。

                       
                          (鈴木 牧人)
 
                

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