日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2014年8月10日の礼拝メッセージから

「平然としていられない」


マタイによる福音書 8章14〜17節
 


本日は、イエス様がペテロのしゅうとめを癒したという記述です。本日の箇所を読みながら、一つ思うのは、自分の大切な身内であるしゅうとめが高い熱を出して苦しみ始めた時、ペトロはどんな思いだったのだろうかということです。しゅうとめの様子を見て、気が気ではなかったのだろうと思うのです。どうしようかと考えたり、悩んだり、とても平然としていることはできなかったのではないでしょうか。祈るような思いで、イエス様に癒しを求めていたのではないかと思うのです。そんなふうに、私は、本日の箇所を読みながら、熱病に苦しむしゅうとめの横で、考えこんだり、悩んだりしているペトロの姿を思い浮かべます。そして、そんなふうに思い浮かべる時、私自身、慰められたり、励まされたりするように思うのです。何というのでしょう。私たちの信仰の歩みというのは、そういうものではないかと思います。信仰を持っているからと言って、どんなことがあっても、ビクともしないというのでもないですし、平然としているわけでもないと思います。現実の私たちというのは、目の前のささいなことで悩んだり、心配したり、思い煩ったりしているのではないでしょうか。私たちは、そんなふうに、心揺さぶられたり、悩んだり、煩ったり、内心、オロオロとしながらも、私たちなりにイエス様を見上げることを辞めないのです。

先週、教会学校の分級の中で、アブラハムの信仰について話し合う時がありました。アブラハムは、よく「信仰の父」と言われることがありますが、そんなアブラハムの信仰を見る時、「自分はあんなふうに信仰が強くなれない」と思ってしまうことがあります。でも、一方で、「はたして、そうだろうか?」とも思うのです。信仰って、「強くあろうとするもの」だろうかと思うのです。私はそれよりも、信仰というのは「定める」ものではないかと思います。私たちの思いを、神様の方向にきちんと定めていく…。私たちには神様しかいないということがきちんと定まっていく…。そのことの方が大事なのではないでしょうか。そうなっていく時、私たちの心がどんなに弱くなったとしても、むしろ、心が弱くなった時だからこそ、私たちは主に寄りすがらなくてはいられなくなるのだと思います。また弱いからこそ、私たちにとって、主が「確かな存在」となっていくのだと思います。私たちはおろおろとしながら、ゆれながら、主を見上げていくのです。でも、それだからと言って、私たちの心が揺るがないものになったわけではなく、時に色々な問題があれば、揺さぶられたり、不安になってしまうこともある・・・。でも、そんなふうにオロオロとしながらも、主を見上げていくのです。本日のペトロもそうだったのではないでしょうか。そして、その後も、ペトロは、ずっとそんな歩みだったのだと思います。舟に乗って、嵐に遭遇してはオロオロし、5000人に食事を与えなければならない事態となってはオロオロしているペトロがいました。でも、その中で、イエス様を見上げながら、イエス様の御業を経験していました。そんな中、確かにイエス様のもとには解決があるんだ、自分たちにはイエス様しかいないという信仰を確かにしていったのではないかと思うのです。
                       
                          (鈴木 牧人)
 
                

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