日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2014年8月31日の礼拝メッセージから

「イエスの舟に」


マタイによる福音書 8章23〜27節
 


 ある時、イエス様と弟子たちは、舟に乗りこんで湖を渡ろうとしました。すると、湖の真ん中で激しい暴風が起こり、舟が転覆しそうになってしまったのです。この時、弟子たちはどんな思いだったでしょうか。本当に恐ろしかったと思います。不安だったと思います。自分たちではどうすることもできない現実をまざまざと見せつけられたのではないでしょうか。弟子たちは本日の箇所で、そのような「嵐の経験」を通らされました。でも、ふと思うことがあります。本日の箇所で弟子たちが経験した「嵐の経験」というのは、何も湖の上での出来事ばかりではないのではないでしょうか。私たちも様々な形で、本日の箇所で弟子たちが経験した「嵐の経験」をさせられるようなことがあるのではないかと思うのです。目の前の出来事に翻弄され、言いようもない不安を通らされる…。心激しく揺さぶられる…。自分たちでどうすることもできないような状況の中で、何が何だか分からないような状況を通らされたり、「これからどうなってしまうんだろうか」と思うような思いにさせられたり…。そんな「嵐の経験」というものを通らされることがあるのではないかと思うのです。「嵐の経験」を通して、私たちが色々なものを見せられることがあるかも知れません。嵐の中で、それまで頼りにしてきたことが、肝心な時に、全く頼りにならないことを見せられ、失望することがあるかも知れませんし、嵐の中で、混乱し、余裕がなくなってしまう中で、誰かの信じられないような行動を目の当りにしたり、信じられないような言葉を耳にすることがあるかも知れません。そんなふうに、私たちの弱さやもろさ、情けなさ、身勝手さ、卑怯さなどが見せられてしまうこともあるかも知れないと思います。でもそんな一方で、色々な経験を通りながら、改めて、自分たちにとって、本当に大切なものは何か、かけがえのないものは何か、嵐の経験を通して知らされるということがあるのではないかとも思います。
 
これは私自身の経験として思うことですが、私たちが嵐の経験を通られる時、私たちにとってかけがえのないものとして挙げられることは、「誰かと共にいる」ということなのではないでしょうか。嵐のただ中で、混乱の中で、不安や恐れで一杯の状況の中、誰かが共にいてくれるということが、私たちにとって、どれほど慰めになり、励ましになり、かけがえのないものとなるのかということを思うのです。それゆえ、私たちの傍らに、嵐の経験を通り、悲しんだり、苦しんだり、色々なことを抱えている方々がいるとするなら、私たちはその方のところに行って、その方にとっての「共にいる誰か」になれたらと思います。そんなふうに私たちがつながることができたらと思うのです。しかし、その一方で覚えていたいことがあります。私たちは、その方のところに行って、その方にとっての「共にいる誰か」になれたらと思うのですが、その人にとって、本当の意味で、かけがえのない誰か、必要な誰かは誰なのかと言えば、それはやはり、イエス・キリストであるということです。その人が、このイエス様に出会うこと、イエス様とつながること…。そこにこそ、本当の意味での慰めがあり、励ましがあり、救いと希望があるのだということを覚えていたいと思うのです。
                          (鈴木 牧人)
 
                

       (TOPに戻る)

Copyright (C) 2001-2007 Meinohama Baptist Church. All Rights Reserved.