日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2014年10月19日の礼拝メッセージから

手のひらの希望

マタイによる福音書 9章20〜22節 


 本日の箇所に記されている女性は、出血が止まらないという病気を抱えていました。十二年もの間、そのような状態でした。当時、このような病には、特別な意味がありました。イスラエルの人々にとって、血というものはタブーだったからです。このような病は、当時、汚れた病と見なされていました。彼女は、これまでどんな思いで過ごしてきたのでしょうか。病気自体、辛かったと思うのですが、それ以上に、病気のレッテルが彼女を苦しめていたのではないかと思います。おそらく、彼女は自分の苦しみを、人に打ち明けるということが中々できなかったのではないかと思います。病気が辛くて、苦しくて、本当なら、誰かに支えてもらいたいと思うのですが、その思いを打ち明けられない…。正直、他の人には知られたくない・・・。そんな思いだったのではないかと思います。彼女は様々な医者にかかり、病を克服しようとしましたが、ダメでした。聖書には、彼女は治療のために全財産を使い果たしてしまったと書かれています(ルカ8:43)。彼女はどうにもならない思いに打ちひしがれていたのだと思います。そんな彼女がイエス様の噂を聞きつけたのです。そして、イエス様に望みを託して近づいていったのです。

 聖書には、彼女がイエス様の「み衣にさわりさえすれば、なおしていただける」(9:21)と思って、イエス様の衣にふれたことが書かれています。私はこの御言葉を読む時、彼女の思いが胸に迫ってきます。どうしていいか分からず、八方ふさがりの状況で無我夢中でイエス様に近づき、何とかイエス様の衣にでも触りたいと思って、必死に伸ばした手…。私はそんな彼女の姿が心に迫ってくるのです。何というのでしょう。そんな彼女の姿に、私たちの信仰の原点があるのではないかと思います。私たちは、本日の長血の女性のような状況ではないかも知れません。しかし、日々の歩みの中で色々な課題を抱えているのではないでしょうか。煩いごとや悩みごとを抱えていることもあるかも知れません。そして、そんな悩みというのは、時に他の人には打ち明けられなかったり、分かってもらえないようなことだったりするかも知れません。そんな中、私たちはイエス様を求め、イエス様に希望を見い出そうとしているのではないでしょうか。本日の長血の女性がそうであったように、「イエス様のみ衣にさわりさえすれば」という思いをもって、イエス様に近づこうとしているのだと思います。

 本日の箇所を読みながら、以前から不思議だなと思うことがあります。それは、本日の箇所には、イエス様にふれた人がたくさんいたはずなのに、なぜ、この女性だけ癒されたのだろうかということです。本日の箇所というのは、人々がごった返していました。当然、イエス様にふれた人はたくさんいたのだと思います。しかし、癒されたのは、この長血の女性だけでした。それは単純に彼女が求めていたからなのだと思います。彼女はただふれたのではなく、信じて、求めて、ふれたのです。それゆえ、彼女の主の取り扱いの御業が起こったのです。ここに大切なメッセージを聞くのではないでしょうか。私たちも、そのような思いで主を求めていきたいと思います。そこから起こされる主の取り扱いの御業があるのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

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