日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2014年10月26日の礼拝メッセージから

神の助けはどこに

マタイによる福音書 9章18〜26節 


 本日の箇所に登場するのは、一人の会堂司です。会堂司とは、人々が礼拝を捧げる礼拝所の管理者であり、礼拝の指導者でした。会堂司は、本日の箇所で、自分の娘のためにイエス様のもとにやって来ました。本日の箇所を読みますと、会堂司がイエス様のところに来た時、娘はすでに亡くなっていたことが書かれています。しかし、他の福音書では、会堂司がイエス様のところに来た時には、まだ娘は生きていて、瀕死の状況だったとも書かれています。もし、まだ娘が生きていたのなら、会堂司としては、一刻も早くイエス様に娘のもとに来てもらいたいと願っていたのではないでしょうか。そんな状況の中、会堂司とイエス様たちは、娘のもとに向かったのでした。そんな最中に起こったのが、9:20-22に記されている長血の女性の出来事でした。この出来事を会堂司は、どう思ったでしょう。娘のもとに向かう途中で、長血の女性のために立ち止まり、彼女と関わろうとしているイエス様の姿に、会堂司としては、気が気ではなかったのだと思います。「彼女なんか放っておいて、早く行きましょう」という思いだったのではないでしょうか。そのように、会堂司の物語に割って入ってくるかのように挿入されている長血の女性の出来事というのは、会堂司にとって、ただごとではありませんでした。そのことのゆえに、会堂司は焦ったり、不安になったり、冷静でいられなくなったり、目の前の出来事を受け入れられず、イエス様に対して一言物申したくなったり・・・。会堂司は、本当に色々な思いを通らされ、信仰が問われたのだと思うのです。

イエス様は、なぜ長血の女性に立ち止まられたのでしょうか。もちろん、それは、12年間も孤独で病に苦しんでいた彼女を放っておくことができなかったからだと思いますが、この出来事を通して、会堂司にも呼びかけられているメッセージがあるのではないかと思います。イエス様は、この出来事を通して、会堂司を不安がらせていただけなのでしょうか。それとも会堂司の信仰を試していたのでしょうか。会堂司の娘が置かれていた状況の緊急性を理解していなかったのでしょうか。そうではないと思います。イエス様は、ここで会堂司に対して「隣人」について教えようとされていたのではないでしょうか。「隣人」とは何か、「隣人」とはどういうものかを教えるために、長血の女性の前で立ち止まられたのではないかと思うのです。実際、会堂司は、この時、問われました。こんな女性、放っておいて、自分のところに来てほしいという思いもよぎったのではないかと思います。しかし、そのような状況の中で、イエス様は「彼女を見なさい」と言わんばかりに長血の女性に関わられたのです。

 本日の聖書の箇所で、私たちが示されること、それは、イエス様の二つの愛の眼差しです。それは「私」に向けられたイエス・キリストの眼差しであり、もう一つは「私の隣人」に向けられたイエス・キリストの眼差しです。私たちは、イエス様が指し示す、この二つの愛を心に刻んでいたいと思います。隣人のいない信仰、隣人を排除する信仰というのは、それがどれほど熱心であったとしても、真理から遠ざかっています。しかし、イエス様の二つの愛の眼差しに気づき、生かされる時、私たちは豊かな祝福に生かされていくのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

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