日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年1月25日の礼拝メッセージから

「持っていくもの、持っていかないもの」

マタイによる福音書 10章5〜15節 

 本日の箇所は、イエス様が十二人の弟子たちを福音宣教のために遣わされたという記述です。ここでイエス様は「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな」と言われました。何故、イエス様はこのようなことをおっしゃったのでしょうか。何より思うのは、ここでイエス様は弟子たちに対して、イエス様に従う歩みには、持っていくべきものと、持っていかなくてもよいものがあるということをはっきりさせておく必要があるということを教えておられたのではないかということです。
以前、古賀教会の金子先生がこんなことをおっしゃっていました。「重荷というと、私たちは、全て同じように考えるかも知れない。しかし、聖書は、重荷には質があるということを言葉ではっきり分けている。あずけるべき重荷と、あずけられない重荷、あずけてはいけない重荷があるのである」。実際、ギリシア語には、重荷と訳される言葉が二つあります。一つは「フォルティオン」です。これは軽重を問わず負うべき重荷です。これに対して「バロス」という言葉もあります。これは背負う必要のない重荷です。このように聖書は、私たちが向き合うべき重荷と、神様に委ねるべき重荷があるということを語っているのです。本日の箇所も、同じようなテーマが挙げられるのではないでしょうか。イエス様は、弟子たちをお遣わしになるにあたって、持っていくべきものと、持っていかなくてもよいものを確認されたのではないかと思うのです。

 それでは、持っていく必要がないものは何かというと、生活の糧に対する重荷でした。あなたが主に遣わされて出ていくなら、その町、その町で助け手を求めなさい。事実、主はあなたに助け手を与え、支えてくださると約束してくださったのです(10:9-10)。加えて、あなたの伝道が成功するか、成功しないか、実を結ぶか、結ばないかということに関しても、あなたが責任を負わなくてもよいということをおっしゃいました(10:14)。これに対して、『天国が近づいた』と宣べ伝えること、病人をいやすこと、悪霊を追い出すことは、あなたがたが向き合うべきテーマなのだとお示しになったのです。

 聖書の時代と、今の時代とは色々と状況が違いますし、事情も違います。しかし、本日の箇所のメッセージは、今日の私たちにも呼びかけられているのではないでしょうか。今日、私たちが主に遣わされていくにあたって、持っていくべきものと、持っていかなくてもよいものも本質的に同じではないかと思います。私たちは、主に遣わされていくにあたって、持っていくべきものと、持っていかなくてもよいものがあります。私たちは、私たち自身の歩みを、根っこの部分では、主に明け渡しています。主の取り扱いに委ねています。そんな中、私たちは、自分で何もかも気負う必要はないですし、先々のことを思い煩うこともないのだと思います。私たちが神様の招きに応えて踏み出すなら、神様がその先のことは責任をもってくださるのです。そして、そのように、私たちが私たち自身の歩みを委ねていく時、今度は、私たちが本当になすべき事柄が見えてくるのではないかと思うのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

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