日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年2月22日の礼拝メッセージから

その名のゆえに

マタイによる福音書10章40〜42節 


 本日の箇所で、イエス様は、イエス様の弟子たちを受け入れることは、すなわち、イエス様自身を受け入れることだとおっしゃいました。この言葉を聞いてどうでしょう。現在、このイエス様の言葉を、さほど抵抗なく聞けるという人は多いかも知れないと思います。イエス様の弟子と言えば、ペトロやヨハネなんかを思い浮かべますが、カソリック教会などではペトロのことを聖ペトロと呼んだり、ヨハネを聖ヨハネと呼んでいます。そんなふうに最初からイエス様の弟子たちを「聖なる人」というイメージを持っていたりする人は多いのではないかと思うのです。ですから、イエス様の弟子たちを受け入れることがイエス様を受け入れることと同じだと言われても、さほど違和感なく聞けたりするのかも知れません。しかし、本日の状況で、これを聞いていた人たちというのは必ずしもそうではありませんでした。イエス様の弟子たちというのは、もともと田舎の漁師や取税人でした。そんな彼らがいきなりイエス様の弟子と呼ばれたとしても、彼らをイエス様と同じように受け入れるということは中々できなかったのではないかと思うのです。


 実はマタイによる福音書には、本日の箇所と全く同じような仕方で人々に語っている箇所があります。「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである』」(18:2-5)。ここでイエス様は、本日の箇所と全く同じような仕方で、「誰々を受け入れる者は、わたしを受け入れるんだ」ということを語っているのです。そして、その誰々として挙げられているのは、小さな幼な子でした。この時、弟子たちは、天国でだれがいちばん偉いのかということを論じ合っていました。そんな弟子たちにとって、小さな幼な子のことなど、全く視点に入っていなかったのだと思います。そんな彼らに対して、イエス様は、幼な子を真ん中に立たせ、「このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」とおっしゃったのです。このことを思う時、イエス様が「この人を受け入れる者は、わたしを受け入れるんだよ」とおっしゃっている人というのは、人々がすんなり受け入れられるような人ばかりではなかったのだと思います。マタイ18章に書かれている幼な子もそうですが、本日の箇所で挙げられた弟子たちの場合もそうだと思うのです。人々が中々そうとは思えない、むしろ違和感を感じてしまうような人に対して、「この人を受け入れる者は、わたしを受け入れるんだよ」とおっしゃったのです。信仰の眼差しをもって、そのように受け入れなさいと招いているのです。そして、そんなふうに、私たちが目の前の一人一人の中に、イエス様を見ていく…。それは、私たちの信仰にとって大切な生き方なのではないでしょうか。

                         (鈴木 牧人)
 
                

       (TOPに戻る)

Copyright (C) 2001-2007 Meinohama Baptist Church. All Rights Reserved.