日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年3月15日の礼拝メッセージから

悔い改めない町

マタイによる福音書11章20〜24節 


 本日の箇所のテーマは「悔い改め」です。イエス様は、本日の箇所で大変厳しい口調で、ご自身がこれまで宣教してきた「コラジン」「ベツサイダ」「カペナウム」の町に悔い改めを迫りました。そして、それらの町々を「ツロ」「シドン」「ソドム」と重ねて語ったのです。「ツロ」「シドン」「ソドム」とは、昔から「神様からの裁きを受けた町」として有名な町々でした。中でも「ソドム」は有名です。創世記には、ソドムの町の罪が余りに甚だしいので神の怒りが及び、ソドムの町は一夜にして火と硫黄が降って来て、滅びたということが記されています(創世記19章)。同様に「ツロ」や「シドン」も、おごり高ぶった結果、神の裁きを受けた町として知られていました。イエス様はそんな町々を挙げて、あなたたちはあの「ソドム」「ツロ」「シドン」と変わらない・・・。もっとたちが悪いと言われたのです。人々はこのイエス様の言葉をどんなふうに聞いたのでしょうか。相当ショックだったと思いますし、「まさか」という思いだったのではないかと思います。少なからず、言われたことに対して抵抗がある人もいたのではないかと思います。実際、これらの町々では、様々な神様の御業がなされており、特にカペナウムの人たちに至っては、「自分たちは天にまであげられるんだ」とさえ考えていました。そんな彼らにしてみれば、イエス様の言葉は、到底受け入れられるものはなかったのだと思います。

 そんな「コラジン」「ベツサイダ」「カペナウム」の町の人々の姿から思います。それは、彼らが、聖書の物語や、そこで語られているメッセージを、「自分に語られた言葉」として聞いていなかったんじゃないだろうかということです。そして、それは、とても重要なことなのだと思います。何というのでしょう。私たちは、どれだけ聖書に親しんでいたとしても、聖書のことを知識として精通していても、その聖書の言葉が自分の言葉として、自分に語られた言葉として聞いていないとすれば、大事な意味を失ってしまうのでないでしょうか。力にもならないし、喜びにもならないし、希望にもならないのだと思います。私たちが神の御業に与っていくためには、私たちがまず、イエス様の御言葉、聖書の御言葉とどんなふうに真剣に向き合っていくかが大切です。そして、そのように御言葉に向き合おうとしていく時に、どうしても避けて通ることができないのが、「悔い改め」なのだと思います。聖書に向き合いながら、聖書に書かれている様々な人の失敗だったり、罪の物語を通して、自分の問題と向き合う・・・。その時に、私たちは砕かれたり、悔い改めに導かれるということがあるのだと思います。そして、そういうところを通るということは本当に大切なことなのです。私たちはしばしば、そういうところが曖昧になってしまうことがあります。そして、そういうところが曖昧になってしまうと、信仰の歩みで行き詰ることがあるのではないかと思います。せっかく神様が私たちを信仰にある新しい歩みへと導いてくださっているのに、どこか今までの思いを引きずり、主と共にある新しい人生に生きることはできないということがあるのではないかと思うのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

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