日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年3月22日の礼拝メッセージから

幼子に示された福音

マタイによる福音書11章25〜27節 


 以前、一人の姉妹がこんなことを言っていました。「伝道したいという思いがあるのだけれど、自分の周りにある職場の人たちであったり、知人だったり、家族だったりを見ていると、皆、自分よりも人生経験豊富で、色々なことを知っている。そんな人たちに自分なんかが伝道できるのだろうかと思ってしまう」。私にその姉妹に対して、こんなふうに言いました。「確かに私たちは、自分だけを見れば、周りの人たちに対して、何も優れているものなどないかも知れません。こんな自分に何が語れるだろうかと思ってしまいます。でも、そんな私たちにも語れるものがあります。それがイエス・キリストの福音であり、御言葉のメッセージなのではないでしょうか」。あの時、姉妹に語った言葉は、今も変わらず私自身の思いとしてあります。しかし、あの時の姉妹の言葉は、私の心にずっと残っています。あの姉妹の言葉というのは、私たちが宣教の働きの中で、格闘し続ける問いなのかも知れないと思うからです。目の前の人を見て、こんな自分に何が語れるだろうかと思う…。私たちは宣教の働きの中で、そういう思いを通ることがあるのではないでしょうか。そして、思うのです。そういう格闘は、おそらく、イエス様の弟子たちも通らされたものだったのではないでしょうか。イエス様の弟子たちというのは、学のある人たちではありませんでした。彼らのある者は漁師であり、ある者は収税人でした。そんな彼らが、学者や町の有力者、有識者に向かって、伝道していったのです。普通なら、あんな人たちに自分たちが何を語れるだろうかと思ってしまうところではないかと思います。しかし、弟子たちは伝道しました。それは、そんな彼らに語れる言葉があったからです。彼らにしか語れない言葉があったからです。それは、イエス様から教えられた福音のメッセージであり、イエス様を証しすることでした。
 本日の箇所を読む時、改めてそのことについて考えさせられます。本日の箇所でイエス様は声をあげて言われました。「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(11:25)。ここでイエス様がおっしゃった「幼子」とは、どんな人のことでしょう。エペソ4:14にはこんな言葉があります。「こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」(エペソ4:14)。ここに書かれているように、「幼子」とは、周りの人間の「様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたり」しかねない人でした。本来、そんな人々が周りに何か語れるのだろうかと思ってしまいます。しかし、イエス様は、そのような人たちが福音を知ったことを喜び、これこそ、「みこころにかなった事」だとおっしゃったのです。この箇所を読む時、本当に励まされます。私たちは自分を思う時、まさに「幼子」のように思える私たちがいます。でも、それでいいのです。自分にも語れる言葉がある・・・。イエス様から語る言葉を託されている・・・。そして、そのように私たちのような者でも、イエス様を大胆に信じ語る時、そんな私たちをイエス様は心から喜んでくださる・・・。そのように思うのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

       (TOPに戻る)

Copyright (C) 2001-2007 Meinohama Baptist Church. All Rights Reserved.