日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年4月5日の礼拝メッセージから

「今だからこその希望」

コリントの信徒への手紙二4章16〜18節


 パウロは本日の冒頭で「落胆しません」(4:16)と語りました。こういう言い方は、ポジティブな言い方とは言えないかも知れません。神学校の頃、新約学の先生が、こんなことをおっしゃっていました。「パウロがこういう言い方をするのは、そう言わざるを得ない現実があるからだ」。そうだろうなと思います。パウロが、ここで「落胆しません」と語ったのは、そう言わざるを得ない現実があったからでした。ともすると落胆の思いに引きずられてしまいそうなる・・・。そういう状況があったがゆえに、こういう言い方をしているのです。そして、パウロが「落胆しません」と言わないでいられない現実として、具体的に語っているのは「『外なる人』が衰えていく」ことでした。歳を重ね、次第に衰えたり、弱ったりしていく…。そういう現実について語られているのです。どうでしょう。私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。歳を重ねる中で、今までできていたことができなくなっていったり、色々なことを諦めなければならなかったり、あるいは色々と心配事や苦労なんかも増えていく…。私たちもそういう状況の中で、落胆させられることがあったりするのではないかと思うのです。おそらくパウロ自身、そういう思いを通らされてきたのではないでしょうか。その中で「わたしたちは落胆しません」と告白しているのではないかと思うのです。
 パウロがそのように語れたのは、「『内なる人』は日々新たにされ」、「見えるものではなく、見えないものに目を注」いでいたからでした。パウロは落胆する現実の中で、そのようなものに目を注いでいったのです。もし、ここで、パウロが「外なる人」に執着し、そこしか見ていなかったら、どうでしょう。落胆したままだったのではないかと思います。「外なる人」や見えるものが全てではないと思い、「内なる人」や見えないものに目を注いでいったからこそ、落胆して、それで終わりでなかったのです。
私は思います。私たちにとって、「希望」というのは、分かりやすいものじゃないといけないのではないでしょうか。そうでないと、私たちはすぐに「希望」を見失ったり、取りこぼしたりしてしまうのだと思います。聖書が語る希望とはシンプルです。イエス様がどんな時も信じる私たちと一緒にいてくださり、守り、支え、導いてくれるということ・・・。私たちは召された時、イエス様に捕らえられていき、その時には、私たちが経験した苦しみとか、悲しみとかいうのが、まるで一時の軽い艱難のように思えるほどの溢れる祝福が待っているということ・・・。それが、イエス・キリストを信じる者に与えられている希望です。そのように、聖書の語る希望は、シンプルなのです。けれど、一点だけ悩ましい問題があります。それは、聖書の語る希望とは、見えるものではなく、見えないものだということです。ですから、私たちが見えるもの、外なるものにだけ目を注いでいる時、聖書の希望は分からなくなってしまうのです。私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ時、初めて、そういうことがクリアになっていくのです。私たちはこのことを心に覚えていたいと思います。パウロはその希望を見つめる中で、「落胆しません」と語ったのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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