日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年4月12日の礼拝メッセージから

「安息日の主」

マタイによる福音書12章1〜8節


 本日の箇所は、ファリサイ派の人々とイエス様との安息日についてのやり取りです。ある安息日、イエス様の弟子たちは、お腹が空いたので、麦畑で麦の穂を摘んで食べ始めました。すると、それを見たファリサイ派の人々が訴えたのです。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」(12:1)。ここのところを読んで、まずアレっと思うことがあります。それは、ここでファリサイ派の人たちが訴えているのが、人の畑で勝手に麦を摘んだことではなく、安息日に麦を摘んだことだったということです。私たちの感覚だと、人の畑に入って勝手に麦を摘むことのほうが、よほど問題があるように思えますが、ここではそのことは問題にはなっていません。あくまでファリサイ派の人々が訴えたのは、安息日に麦を摘んだことでした。
 それほど安息日を大切に考えるファリサイ派の人々の姿は、決して間違っていません。むしろ、大切なことなのだと思います。これに対して、イエス様の側としても、安息日なんか気にすることもないし、破っても構わない・・・。そういうことをおっしゃっているわけでもありませんでした。ここの論点は見失わないでいたいと思います。ただここでイエス様が問題とされたのは、ファリサイ派の人々が安息日をどういう思いで守っているのかということでした。イエス様は、ここでダビデ王の例を取り上げられました(12:3)。かつて空腹だったダビデが、本来食べてはならなかった供えのパンを食べることができたなら、今、空腹で困窮している弟子たちも、安息日に麦の穂を摘んで構わないじゃないかとおっしゃったのです。このイエス様の言葉から知らされることがあります。それは、私たちを安息日に招いておられるイエス様は、私たちの置かれている現実をご存知だということです。私たちが置かれている状況をよく知っておられ、必要なものも知っておられ、私たち以上に心を配ってくださる・・・。それが私たちを安息日へと招かれている主の眼差しなのです。
 もし私たちにとって、神様というお方が、私たちの実際の歩みに全く係わりのない方でしかないなら、私たちにとって、日曜日の礼拝というのは、本当の安息の場所にはならないのではないかと思います。礼拝を献げていても、心の中はそれぞれ置かれている生活のことで一杯になったりするのではないでしょうか。でも、そうではないのです。私たちを安息日の礼拝の場所へ招いてくださる主は、私たちのことを誰よりも知っていてくださるのです。私たちが抱えている問題やわずらい事も知っていてくださるのです。私たちがそのことを知る時、私たちにとって安息日の意味は大きく変えられていきます。私たちにとって、安息日は主の御前に重荷を降ろす日となり、本当の意味での安息の場所となっていくのです。イエス様は、その安息日の意味を改めて、ここで確認されたのだと思います。ただ規則の問題として、「安息日を守りなさい」と主張しながら、どこか窮屈な思いで安息日を過ごし、人を裁いてばかりいて、心静めたり、重荷を降ろすこともできていないファリサイ派の人々に対し、安息日とは本来どういう日なのかということを指し示しておられるのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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