日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年5月3日の礼拝メッセージから

「大通りでは聞こえない」

マタイによる福音書12章15〜21節


 私は先週、父と母の引っ越しを手伝ってきました。その引っ越しの最中、こんなことがありました。父がベランダにある鉢植えを見せてくれたのです。鉢植えには、シクラメンの花が満開に咲いていました。何でも、このシクラメンの鉢は、昨年のもので、一度花は散ってしまって、木も枯れかけていたそうです。それを見た母は、この鉢植えはきっともう駄目だから、処分してしまおうと言ったそうです。しかし、父はそれに対して、「水でもやって、もう少し様子を見てあげようよ」と話したそうです。そうして、水をやっていたところ、やがて、シクラメンは、元気を取り戻し、見事な花を咲かせてくれたのでした。父はそのシクラメンを私に見せながら、嬉しそうに「これを新しい家にも持っていくんだ」と言っていました。新しい住居についてからもまず最初に、鉢植えに水をやっていましたから、よほど大切にしているんだろうなと思いました。そして、そんな父の姿を見ながら、本日の御言葉が、重なってくるように思いました。
「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない」(12:20)。
 ここには、イエス様がどのようなお方なのかということが記されています。イエス様というお方は、私たちにとって、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないお方だ」と言われているのです。ここに記されている傷ついた葦を折らないという言葉を読みながら、実家で見たシクラメンの花が重なってくるように思いました。ここで言われている葦も、本来、傷ついてしまって、もはや価値を失い、捨てられてしまっても仕方のないような状況だったのかも知れません。しかし、イエス様は、そんな傷ついた葦を折ってしまうようなことはないのです。その葦でさえ、見捨てずに関わってくださり、何とか生かそうとしてくださる・・・。それがイエス様というお方なのです。
 本日の箇所に語られている「彼は傷ついた葦を折らず」という姿を見ながら、何より思わされたのは、イエス様の愛と優しさに溢れた眼差しです。イエス様は、私たちを何よりそのような眼差しで見ていてくださっているのだなということを思います。しかし、それだけではないのだとも思います。傷ついてしまって、もう回復の道がないように思える葦をそれでも見捨てずに顧みようとする眼差しには、この葦がもう一度回復するであろうことを信頼し、期待をかけている・・・。そのような眼差しが注がれているのではないでしょうか。
そんなふうに、私は、本日の「傷ついた葦を折らない」というイエス様の姿に、イエス様の優しさに溢れた愛の眼差しを思います。同時に、たとえ私たちが傷つき、弱り果ててしまったとしても、もう立ちあがれないかのように思えたとしても、それでも私たちを信じ、私たちに期待を寄せる眼差し・・・。そんな眼差しで、傷ついた葦である私たちを見てくださっている姿を思うのです。そして、その「信・望・愛」の眼差しこそが、弱りはて、疲れはて、うなだれてしまっている私たちを癒し、慰め、励まし、もう一度立ちあがらせてくれるのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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