日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年5月10日の礼拝メッセージから

「神の国が来ているのに」

マタイによる福音書12章22〜32節


本日の箇所は、イエス様が一人の悪霊に取りつかれた人を悪霊から解放したという記述です。ここには、悪霊に取りつかれた人が、目が見えず、口も利けなかったと記されています。本日の箇所から、まずこのことが心に留まりました。ずい分前のことになりますが、ある方がこんなことをおっしゃっていました。
「私は、自分の思いを率直に話すことができない。本当は聞いてもらいたい悩みがあったり、知ってもらいたい思いや、分かち合いたいことがあったりするのだけれど、肝心なことをいつも言い出せない。全部自分で抱えてしまって、もんもんとしてしまう。言えば、もっと楽になるのかも知れないのにと思うのだけれど、中々そうすることができない」。
その方はきっと色々な思いから、そんなふうになっているのではないかと思います。遠慮があるのでしょうか。「こんなことを言ってもどうせどうにもならない」という諦めがあるのでしょうか。あるいは、いざとなると自分を繕ってしまうのでしょうか。色々かも知れませんが、とにかく本当に言いたいことを言えないのです。その様子というのは、本日の箇所に書いてあるような、悪霊に取り付かれ、口を利くことができなくなったということとは全く違います。しかし、何というのでしょう。「ものを話すことができない」ということ、そして、そのことで「苦しんでいる」ということに関しては、重なってくるところがあるかも知れないと思うのです。そして、そんなふうに、話したいことがあるのに、話せないということは、私たちにもしばしばあるのではないかと思います。実際、教会に来る人の中には、そういうことで苦しんでおられる方が結構おられます。色々な思いを抱えていながらも、その思いを吐き出ずに、堅い表情をして、教会に来られたりするのです。そんな方が、イエス様の愛に触れることを通して、御言葉に触れることを通して、聖霊の業、主の取り扱いの中で、少しずつ心がほどかれていくということがあります。結果、今まで口にすることがなかった思いを語ってくれたり、分かち合えなかった思いを分かち合うことができるということがあるのです。そういう様子を見せられる時、私は本当に、主の取り扱いというものを感じます。おそらく、周りの人がどうこうしても、どうにもならない・・・。そんな心の深い部分にある思いや問題を主が取り扱い、開いてくださった・・・。そのように思うのです。主の素晴らしさを感じる瞬間です。
これは、本日の箇所に書かれている人の話は違うのかも知れませんが、ものを話すことができずに苦しんでいた人が話せるようになったということ、あるいは悪霊に縛られて自分を見失っていた人が、縛りから解放されて本当の自分を取り戻すことができたという出来事を、私たちは様々な広がりをもって受け止めることができるのではないかと思います。私はここに、福音の世界が象徴されているのではないかと思うのです。様々なものに縛られていた人が解放され、語れなかった人が自分の言葉を取り戻して語り出すということ・・・。まさにここに福音の世界は表されているのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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