日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年5月17日の礼拝メッセージから

「良い実を結ぶために」

マタイによる福音書12章33〜37節


 本日の箇所は、イエス様が、私たちの「心にあふれていること」(12:34)について問いかけられた箇所です。そのように私たちの心にあふれていること、そのことが私たちの口から出てくる言葉となるとおっしゃったのです。またイエス様は、本日の箇所で次のようにもおっしゃいました。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」(12:33)。この御言葉を読みながら、ある意味、厳しいなと思いました。もしあなた自身の木が、悪い状態だとするなら、その実は悪いとしなさい・・・。この「しなさい」という言葉が残酷な響きで迫ってきたのです。木が悪いんだったら、結ぶ実は悪い・・・。どうやったって悪い・・・。そんなふうに宣告されてしまっているように思いました。しかし、一方でそういうことを受けとめなければいけないのだなとも思いました。私たちが、悪い木のような状態だとするなら、それをきちんと受け止めなければいけない・・・。私たちが、悪い木のような状態なのに、結ぶ実だけは良いものにしようと、誤魔化していたり、繕っていても仕方ない・・・。そのように思ったのです。良い実を結ぼうとするのであれば、やはり元となる木が取り扱われなければ、何の解決にもならないのです。
 私たちの心をのぞいて、そこにあふれてくるものはどんなものでしょうか。私たちの木の状態はどんなものでしょうか。きっとそれは、私たち自身がよく分かっているのだと思います。私たちが、それを隠していても、誤魔化していても、何の解決にもなりません。おそらく私たち自身が苦しいのではないかと思うのです。ただ、そのことを受けとめながら、もう一つ、覚えていたいことがあります。イエス様は、私たちが悪い木であろうと、どうだろうと、そんな私たちを、そのまま、丸ごとに愛してくださっているということです。私たちは、自分自身の心にあるものと正直に向き合う時、そんなありのままの私たちを丸ごと愛してくださるイエス様と出会うことができるのです。
 本日の箇所のたとえというのは、ルカによる福音書にも書かれています(ルカ6:43-45)。そこでは悪い木の代表として、茨の木がたとえとして挙げられています。確かに茨の木とは刺ばかりで、良い木としてのイメージはないのかも知れません。そして、そんな茨の木の姿を思う時、自分の心が時々に茨の木のようになっていることを思います。心が刺で一杯になって、傷つき、苦しんでいる・・・。同時に、その刺で周りも傷つけてしまっているのです。そんなふうに、茨の木を思う時、その木こそ、時々の自分じゃないかと思います。放っておくと、すぐに心がささくれ立ったり、刺で覆われてしまう・・・。そのような自分がいることを思うのです。でも、そんなふうに茨の木を自分の木に重ね合わせながら、もう一つ思うことがあります。それは、茨の木を冠にして、十字架へと向かわれたイエス様の姿です。イエス様は、あの十字架に向かわれる歩みの中で、いばらの木を冠として被ってくださいました。その姿に、私たちをありのままで受け止め、愛してくださったイエス様の姿が象徴されているのだと思うのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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