日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年5月31日の礼拝メッセージから

「あるじのいない家」

マタイによる福音書12章43〜45節


 本日の箇所でイエス様は、汚れた霊に取りつかれ、いったん解放された人の「その後」についてお話になりました。一度、汚れた霊は、出て行くのですが、その後、霊は再び、元の場所に戻って来るのです。しかも、仲間たちの霊まで連れて来たのでした。考えただけでも、ゾッとするお話です。しかし、イエス様はそんなことがあるんだということをおっしゃいました。汚れた霊に支配され、散々苦しめられ、ようやくその苦しみから解放されて、自由にされた・・・。にも関わらず、再び、その汚れた霊に支配されてしまうことがあるんだと言われているのです。
本日の箇所を読みながら、このたとえの何が問題だと思うでしょう。色々なことが言えるかも知れません。しかし、何より思うのは、汚れた霊から解放された後の対応です。この家は、汚れた霊が出て行った後、空っぽの状態でした。それゆえ、帰ってきた汚れた霊は、いともたやすくこの家に入ることができたのです。空っぽの家・・・。言うなれば、持ち主のいない家、あるじのいない家です。ここでは、それを私たちの心の状態として言われています。つまり、あるじのいない心・・・。主とするものがいない心・・・。軸とすべきもの、中心になるものがない心が言われているのです。そのような心は、実にあやふやで、いつ迷ってしまうか分からない・・・。愚かな方向に向かってしまうか分からない・・・。汚れた霊に捕らえられてしまうか分からないのだということが言われているのです。私たちの心は、「あるじのいる家」となっているでしょうか。もし、私たちの心にあるじがいるなら、本日の箇所のような失敗は、簡単には起こらないのだと思います。すぐに、心が流されてしまったり、迷い込んでしまったりすることもありません。確かなものとされていくのだと思います。
 私たちは、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪を贖われ、赦され、救われました。これが私たちの信仰の核心部分です。しかし、一方で思うことがあります。それは、私たちの信仰は、ここのところで終わってしまってはいけないんじゃないかということです。イエス・キリストの十字架と復活を通して、罪を贖われ、赦され、救われた私たちがどうするのか、どのように歩み始めるのか・・・。そのことも大切な信仰のテーマなのです。私たちは、私たちの罪を贖い、赦し、救ってくださったイエス・キリストを、私たちの主として迎え入れ、主に従う新しい人生を歩み始めるのです。そのことが私たちの信仰の歩みなのです。
 今の時代というのは、本当に不安定で先の見えない状況です。そんな中、私たちが周りに振り回されないために、過ちを犯さないために、自由に生きようとしながら、結局見えないものに支配されてしまうようなことのないために、心に明確なあるじを迎えることが必要なのだと思います。心のあるじとして、イエス・キリストをお迎えしたいと思います。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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