日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年8月2日の礼拝メッセージから

かけがえのないもの

マタイによる福音書13章44〜46節


 イエス様は、本日の箇所で、天の国を「畑の中に隠された宝」にたとえました。ある人が畑の中の宝を見つけた時、自らの有り金をはたいて、宝を手に入れようとする・・・。そんな姿に天の国をたとえられたのです。本日のたとえを読む時、ここで、畑の中に宝を見つけた人が畑を買うということは、相当な決断だったのではないかと思います。持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う・・・。喜びながらも、本当にドキドキしながら、畑を購入したのではないかと思うのです。その姿に凄いなと思ったり、自分にできるだろうかと思ったりします。しかし、そんなふうに、自分の持てるものを全て献げてまで、それを得たいと求めていく・・・。それほどにかけがえのないものに出会ったということは、ある意味、羨ましいことでもあるのかも知れないとも思います。
 これは、自分自身のこととして思うのですが、私たちはしばしば、何となく、色々なものを欲し、得たいと思ったりするのですが、それらのものを「他のあらゆるものに替えてでも、手に入れたい」と思うほど、かけがえのないものだと思っているかというと、必ずしもそうでなかったりするのではないかと思います。それほどでもないのですが、あれこれと色々なものを手に入れようとしたり、欲しがったり・・・。そんなことがあったりするのではないかと思うのです。そんな私たちのことを思う時、本日のたとえが心に響いてきます。ここには、畑の中の宝を見つけた人が、喜び勇んで家に帰り、躊躇することなく、自分の持ち物を売り払って、その畑を買っている様子が記されています。「それが天の国なんだ」と、イエス様はおっしゃっているのです。
 以前、ある先生がこんなことをおっしゃっていました。「神様は、私たち人間をお造りになった際、私たち一人一人の心に空洞をお造りになった。私たちは神様を知っているとか、知らないとかに関わらず、皆、心のどこかにその空洞を感じている。そして、その空洞をそれぞれ様々なもので埋めようとしている。でも、他のものでは埋められない。パズルのピースが合わないように、空洞は神様でしか埋められないんだ」。本日のたとえの「宝物を見つけた人」がこれほどに畑を求めたのも、そういうことだったのではないかと思います。この人は他では埋められないもの、何にも替えられないものを、この宝に見いだしたのです。そして、イエス様の弟子たちというのは、実際にそういう思いで、イエス様の中に「かけがえのない宝」を見出していったのだと思います。イエス様の最初の弟子であるペトロやアンデレ、ヨハネ、ヤコブ、そして、パウロもそうだったのだと思います。彼らは、イエス様に出会った時、それまで自分たちが持っていた一切のものを手放してイエス様に従っていきました。彼らは、イエス様の中に、他では埋められないもの、何にも替えられないもの、自分たちがこれまで心の中で密かに求め続け、得られなかったかけがえのないものを見いだしたのです。
 本日のたとえから、改めて私たちにとっての「かけがえのないもの」がイエス・キリストにあることを教えられました。そのキリストを共に追い求めていきたいと思います。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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