日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年8月23日の礼拝メッセージから

イエス様のお帰りだ

マタイによる福音書13章53〜58節


 本日の御言葉は、イエス様が御自分の故郷に帰られたという箇所です。イエス様にしてみれば、懐かしい故郷ナザレでの宣教は、特別な思いだったのではないでしょうか。何とかこの人たちに、神様の恵みを知ってもらいたい、受け入れてもらいたいと思っていたのではないかと思います。しかし、ナザレの人々はイエス様のメッセージを聞いても「この人は大工の息子ではないか」(13:55)と言って、イエス様のことを信じようとしませんでした。本日の箇所を読む時、ナザレの人々の姿に本当に残念だなと思います。しかし、ナザレの人々は、最初からイエス様のことを毛嫌いしていたり、拒もうとしていたわけではなかったのだと思います。ルカ2:52には、イエス様が神と人とに愛されながら、成長していかれたことが書かれています。その記述を読む時、イエス様は、このナザレで、周りの人々に愛されながら、育ったことが分かります。そのイエス様が帰ってきたのでした。ナザレの人たちは最初、イエス様のことを歓迎しようとしていたのではないでしょうか。しかし、結果として、イエス様を拒んでしまいました。ナザレの人々にしてみれば、目の前のイエス様に違和感を覚えたのかも知れません。イエス様は、ナザレの人たちが知っている「大工の息子」としてでなく、「神の言葉を告げる預言者」として来られました。そんなイエス様の姿に、ナザレの人々は違和感を覚え、戸惑い、受け入れることができなかったのでないでしょうか。
 そんなふうに、本日の箇所のナザレの人々の姿を見る時、彼らなりの事情や心情があったのではないかと思います。そして、そのことに致し方ないのかなとも思います。ただやはり、せっかくイエス様が来てくださったのに、イエス様を受け入れられなかったことは残念だと思いますし、どうにかならなかったのだろうかとも思います。そして、思うのは、彼らがもう少し、イエス様の前に立ち止まって、ちゃんと聞くことができたらどうだったろうかということです。もしかしたら、もっと違ったふうにイエス様に向き合うことができたかも知れないと思います。13:54には、ナザレの人たちが、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と言ったことが書かれています。もしナザレの人々が、もっと単純にこの問いに向き合うことができたらどうでしょうか。彼らはもっと違ったふうにイエス様に向き合うことができたのではないかと思います。イエスのしていることに驚きながら、「この人の何でこんなことができるのだろう。もしかして、イエスは、俺たちがこれまで考えていたような人ではなかったのではないだろうか」と気づけたかも知れないと思うのです。しかし、彼らはこの問いが心の中に湧き上がった後、すぐに安易な答えを出してしまい、その後は、そういう固定概念でもってでしか、イエス様を見れなくなってしまうのです。
 そんなナザレの人々の姿を見ながら思います。私たちには、向き合うべき問いに向き合い、きちんと立ち止まって、考えたり、聞こうとしていくことが大事な時があるのではないでしょうか。そういうことの先に、自分が砕かれたり、根底のところから変えられていくような新しい発見や新しい出会いというのがあるのではないかと思います。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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