日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年11月1日の礼拝メッセージから

カナンの女の信仰

マタイによる福音書15章21〜28節


 本日の箇所の舞台は、ティルスとシドンです。そこで突然、イエス様の前に一人の女性が現れました。彼女は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と訴えながら、自分の娘を癒してくれるように頼みました。ところがイエス様は、彼女の要求を断ります。その理由について、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15:24)とおっしゃったのでした。イエス様の態度は大変厳しいものです。しかし、そんなイエス様の姿を読みながら、ハッとさせられることがあります。それは、イエス様が御自分の思いや考えで、福音宣教の働きをしておられたわけではないんだということです。御自分の思いや感情や衝動で、福音宣教の働きをなさっていたわけではなく、父なる神様から自分が何のために遣わされているかということを大切にされていたのです。このため、カナンの女性に相対した時も、イエス様自身色々と思うことがあったかも知れませんが、「今は残念だけど、あなたに応対することができない」と言われたのではないかと思うのです。
 そして、何というのでしょう。このことは大事なことなのではないかと思います。私たちの働きの軸として、「自分がこうしたい」ということが中心にあるのではなくて、「神様の御心がどこにあるのか」ということを軸に据えようとする・・・。それは大事なことなのではないでしょうか。「自分がこうしたい」ということを中心にしている時も、私たちは私たちなりに良いと思うことをしているかも知れません。そして、それは悪いことに思えないことだったりするかも知れません。しかし、何というのでしょう。そのように私たちにとって「良い」と思うようなことが、いつも本当に良いことなのかと言えば、そういうことばかりではないかも知れません。私たちが自分の思いや衝動だけで行動する時、それは時に、危うさを抱えていることがあるかも知れないと思うのです。
 そんな中、本日の箇所から、「自分がこうしたい」ということでなく、「神様の御心がどこかにあるのか」ということに心に向けていくことを考えていきたいと思います。そして、私たちがそのようしていくためには、前提として、神様への信頼が必要なのではないでしょうか。私たちの思いや考えよりも、神様の御心に最善があるんだと信頼していく・・・。そういうことがあって始めて、事柄を神様に委ね、神様の御心がどこにあるのか求めていくことができるのではないかと思うのです。イエス様もそのように歩まれたのだと思います。本日の箇所でも、そのようなイエス様の姿が表されているのではないでしょうか。イエス様は、徹底して、自分の思いではなく、御心を求めました。そして、そんな選び取りの中で、イエス様は、十字架へと向かわれたのです。イエス様がもし、御心を求める思いを貫かれなかったら、十字架に向かうことはできなかったのかも知れません。十字架への道は、イエス様御自身にとっても理解できないような道でした。「わが神、わが神、何故ですか?」と叫ばないでいられないような道でした。しかし、そこに最善があることを信じて、自分がしたいと思うことをするのではなく、神様の御心がどこにあるのかを求めていかれたのです。

                         (鈴木 牧人)
 
                

 

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