日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年11月15日の礼拝メッセージから

光の子として歩みなさい

エフェソ5章8節


 本日は成長感謝礼拝です。先ほど、子どもたち一人一人を覚えて、お祈りをさせていただきました。教会に連なる子どもたちが、これから主に導かれ、育まれながら、豊かに成長してくれることを祈っていきたいと思います。そのような礼拝に選ばせていただいた聖書の箇所が、エフェソ5:8の御言葉です。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)。
ここには、「光の子として歩みなさい」という言葉が記されています。私たちが具体的に「光の子として歩む」とはどういうことでしょうか。色々なことが言えるのかも知れません。しかし、私は「光の子として歩む」ということを思う時、一つの聖書の言葉を思い出します。それは、本日の招きの言葉でお読みした創世記1:1-3の御言葉です。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:1-3)。
 私は、「光の子として歩みなさい」という言葉を読む時、この創世記の御言葉を思い出します。そして、思うことがあります。それは、私たちが「光の子として歩む」ということは、「光あれ」と言われる神様の御言葉に生きる・・・。それ以外にないんじゃないかということです。世界の光は、創世記1:3から始まりました。神様が言われた「光あれ」との御言葉によって生じたのです。創世記1:2には、それ以前の大地の様子が記されています。神様の御言葉が発せられる前、大地が生じさせていたものは、暗闇と混沌だけでした。大地からは、光は生まれなかったのです。私たちも同じではないでしょうか。私たちも大地のように、必死にもがきながらも、そこで生じさせているものは何でしょう。必死にもがきながらも、そんな私たちがどんどんと混沌や暗闇に沈みこんでしまうということがあるのではないかと思うことがあります。そんな中、私たちが御言葉に出会う時、「光あれ」と言われる神様の御言葉を受けいれ、その御言葉に生かされる時、私たちの歩みに光が生じる・・・。そのようなことがあるのではないかと思うのです。
 これは、自分自身のこととして痛感することですが、時に、未だに日々の様々な問題だったり、煩いごとの中で、いつの間にか、暗闇の中に、混沌の中に沈み込んでしまおうとしている自分がいるように思います。そんな中で必死にもがいているのですが、どうにもならないのです。改めて、御言葉の中に光があるということを信じて、御言葉に繋がっていきたいと思います。そして、その御言葉との生きた出会いを経験していきたいと思います。そのように日々、御言葉に出会い続けながら、生かされながら、草花が一杯の太陽を受けて、元気に育っていくように、私たちも成長していけたらと思うのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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