日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年11月22日の礼拝メッセージから

病める人と共に生きる

マタイ15章29-31節


 本日の箇所には、イエス様がガリラヤ湖のほとりの山に登った時に、そこに大勢の群衆がやって来た様子が記されています。彼らは、「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人」を連れて来ていました。おそらく、この人たちを連れて来たのは、この人たちの知り合いたちなのだろうと思います。同じ村の人たちなのかも知れませんし、友だちなのかも知れません。身内の誰かなのかも知れません。いずれにしても、これらの人に関わりのある人たちが、この人たちを連れてきたのではないでしょうか。そして、そんなふうに、この人たちを連れて来た人々は、普段の生活においても、様々な形で、この人たちに関わってきたのではないかと思います。足の不自由な人であれば、どこか移動する時に手助けをしてあげたり、場合によっては、その人をおぶってあげたりしたかも知れません。目が見えない人であるなら、どこかに行く時に、その人に肩を貸してあげたりしながら、道を先導してあげたりしたかも知れません。口の利けない人であれば、生活の上で色々とコミュニケーションを取ることが難しいこともあったのだと思います。その人が何かを訴えようとする時、真剣にその人の訴えに耳を傾けながら、その人が何を言おうとしているのか、必死に汲み取ろうとする・・・。そういうこともあったのではないかと思います。いずれにしても、本日の箇所で、イエス様のもとに足の不自由な人だったり、目の見えない人だったり、体の不自由な人だったり、口の利けない人だったり、その他の病人たちを連れてきた人たちというのは、それまで、この人たちと共に過ごしながら、この人たちと様々な関わりをもって歩んできたのではないかと思うのです。そんな中、イエス様の噂を聞き、「イエス様のところに行ってみよう!」ということで連れて来たのだと思うのです。
 そのように本日の箇所で、イエス様のところに障がいを抱えた人や、病を抱えた人が連れて来られた背景には、色々なドラマがあったのではないでしょうか。「共に生きる」という現場で起こるような様々な出来事が起こされてきたのだと思うのです。「共に生きる」ことの温かな交わりの出来事も起こされていれば、そのことの大変さや苦労も通らされてきた・・・。そういうことを経験した人たちがそこにはいたのではないかと思うのです。そして、思うことは、本日の箇所で人々が「主の御業を目撃したこと」と、その人々がこれまで「病める人と共に生きてきたこと」というのは、つながっているのではないかということです。この人たちは、病める人たちと共に生きようとしてきました。そこでは色々な経験をしてきたのだと思いますが、そんな彼らが、本日の箇所で、イエス様に出会い、イエス様の御業を経験したのです。そのように、病める人や、その病める人と共に生きようとしてきた人々の間に、神の国の出来事は起こされていったのです。彼らは神の国の御業を目撃したのです。
 私たちの周りには、色々な課題があります。身体的に精神的に色々な傷や、痛み、病を抱えている人がいます。共に生きることの苦労やしんどさ、難しさを感じることがあります。そんな中、本日の箇所は、私たちに励ましと慰めを与えてくれるのではないかと思います。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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