日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年11月29日の礼拝メッセージから

暗くなってゆく灯

イザヤ書42章1-4節


「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」(42:3)。
 本日の御言葉を読みながら、「暗くなってゆく灯心」という言葉に目が留まりました。「暗くなってゆく」ということはすぐに消えてしまうわけではないのだと思います。せっかく明かりがついていたのに、その明かりが段々と力を失いながら、光が消えてゆこうとしていく・・・。そういう状況なのではないでしょうか。私たちは時に、歩みの中で、そういうことがあるのではないでしょうか。私たちの心の中のともし火が、どんどん「暗くなってゆく」ことがあるのではないかと思います。すぐに消えてしまうのではありません。次第に暗くなってゆくのです。私たちとしては、一生懸命、光を保とうとするのです。光を絶やさないようにしているのです。しかし、必死に光を保とうとしても、そうさせてくれない状況があって、次第に光を失ってしまう・・・。そういうことがあるのではないでしょうか。しかし、イエス様は、そういう人のところに来てくださり、その人の「暗くなってゆく灯火を消すことなく」、その人に確かな光を与えてくださるのです。
 ヨハネ9:1-7には、イエス様と目が見えない人との記述が記されています。生まれつき目の見えない人がいるのを見て、弟子たちは言いました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)。おそらく、この時代、こういうことを言っていたのは、弟子たちだけではなかったのだと思います。そして、このような言葉によって、この目の見えない人は、これまでどんなに傷ついてきたのでしょう。ただでさえ、目が見えないというハンデキャップで苦しんでいたにも関わらず、そんな自分に対して、周りの人たちから容赦なく、あなたがそうなったのは、あなたや、あなたの両親が罪を犯したからだと言われてしまう・・・。そんな状況の中で、この人の心は、まさに「暗くなってゆく灯火」ような思いだったのではないかと思います。心の中に必死に光を灯そうとしながら、そうさせてくれない状況があって、自分を悩ましたり、苦しめるようなことばかり重なりながら、心のともし火はどんどん光を失っていたのです。そんな彼にイエス様はおっしゃいました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)。この言葉は、目の見えない人のそれまでの人生を一変させてしまう言葉でした。自分の人生は、辛いことばかりで、神様から見捨てられ、罰を受けていると思っていた人生だったのに、そうではないんだ・・・。むしろ、神様は自分に特別な御業をなさるために、ここまで導いてくださったんだ・・・。そのように、この目の見えない人は、イエス様に出会うことを通して、単に身体的に目が見えるようになったというだけでなく、彼の人生すべてに全てに光が差し込むという経験をさせられたのだと思います。まさに、この人は、暗くなってゆく灯火をイエス・キリストとの出会いを通して変えられた・・・。確かな光が与えられたのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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