日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年12月6日の礼拝メッセージから

空しさを抱えつつ

イザヤ書49章1-6節


「わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と」(1:4)。ここには、神様の御言葉を伝える働きをしていく中で、僕が至った思いが記されています。1-3節に記されている様子とは対照的な姿が記されているのではないでしょうか。鋭い剣のような力強い御言葉を語る僕の姿ではなく、自信を失い、「自分のしていることは意味があるんだろうか」と悩み、嘆いている姿が語られているのです。おそらく、実際にそういう状況があったのではないでしょうか。私たちもそういうことがあるのではないかと思います。せっかく思いをもって、神様に仕えて、何かの働きをしようとしても、そんな私たちの思いが萎えてしまうことがあるのではないでしょうか。「自分は何やっているのだろう?」「自分がしていることは意味あるんだろうか?」そんなふうに思ってしまうことがあるんじゃないかと思うのです。そういう時、私たちは、どうしているでしょう。落ち込んだまま、どんどん心が沈み込んでしまう自分がいたりしないでしょうか。あるいは、色々なことに嫌気がさして、「もういいや」と投げやりになってしまいそうになるかも知れません。しかし、主の僕は違いました。49:4の前半で、「わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした」と語りつつ、その後、次のように続けるのです。「しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である」(49:4b)。そんなふうに、主の僕は、心が沈み込んでしまっている状況の中で、もう一度、自分の働きを思い返し、主から力を与えられていくのです。
 私は49:4の前半部分と後半部分以降の御言葉を読みながら、ここに何があったのだろうと思います。色々なことが言えるかも知れませんが、私はここに「礼拝」があったのではないかと思います。現実の働きの中で、疲れはて、力を失い、自分の立つべき場所さえ見失ってしまいそうな僕が、礼拝するような思いで、主に心を向けていったのではないでしょうか。そのような思いで、主に静まりながら、主に疲れ切った自分、沈み込んでしまっている自分をも預けていったのではないでしょうか。その先にこの僕は取り扱われていったのではないかと思うのです。そして、そんなことを思いながら、改めて考えさせられることがあります。それは、私たちは、そのようにして主の働き人として立てられていくんだなということです。私たちはそれぞれ様々な形で、主の働き人として立てられています。しかし、そんなふうに立てられながらも、私たちは迷ってしまうことがあります。自分を見失ってしまうことがあります。そんな中、私たちは絶えず、主に礼拝することが必要なのだと思います。礼拝を通して、主の御前に心を静まることを通して、御言葉に聞くことを通して、心亡くしてしまった私たちが自分自身を取り戻したり、回復したりする…。私たちは繰り返し、繰り返し、そのようにしながら、迷ってしまう自分が立ち帰らされながら、主の働き人として立たされていくのだと思うのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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