日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年12月13日の礼拝メッセージから

自分の火の光を掲げて

イザヤ書50章4-11


「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(50:6)。
ここには、「主の僕」に対して、人々がしていった事柄が記されています。人々は、主の僕に対し抗い、主の僕の背中を打ったり、ひげを抜こうとしたというのです。これは実際に起こった出来事でした。主の僕イエス・キリストは、この歌の中で言われているように歩まれていったのです。人々はイエス様に対して心を頑なにさせ、イエス様を攻撃しました。背中に鞭を打ち、嘲りの言葉を浴びせ、イエス様を十字架につけていったのです。本日の箇所を読みながら、何より思うのは、私たちの愚かさです。せっかく、私たちを励ますため、力づけるため、救い出すために来てくださったのに、そんな主の僕に対して耳を塞ぎ、反発し、攻撃している…。私たちはそんな愚かなことをしてしまうんだということを思うのです。
 その一方で心に迫ってくるのは、「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた」というところの「まかせた」という言葉です。イエス様はこの御言葉にある通り、人々に抗うことなく、打とうとする者に背中をまかせ、十字架に向かわれたのでした。イエス様は何故、そのように歩まれたのでしょうか。打とうとする者に背中をまかせ、十字架に向かわれたイエス様の姿を思う時、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)との御言葉を思い出します。以前、マタイ5:39の御言葉に対して、こんなことを言っている人がいました。「何でやられたのに、やりかえしちゃいけないのか。そんなのナンセンスだ」。確かに、この御言葉というのは、すんなり心に入ってくる言葉ではないかも知れません。私たちが「こんなことできるのか」と問われる時、簡単には答えられないかも知れません。しかし、この御言葉を読みながら思うことは、「できる」とか、「できない」ということを考える前に、問われていることがあるのではないかということです。もし自分の右の頬を打たれて、それでも相手に左の頬を差し出すような人がいるとするなら、その人はきっと、色々なことが見えているのではないでしょうか。自分の頬を打たれて、本当は傷ついていますし、心も騒いでいるかも知れません。抑えきれない感情も湧き上がるかも知れません。しかし、そのような状況の中にあって、この人はきっと、自分に対して抗っている目の前の人も「尊い一人の人」であり、「愛すべき存在」だということが見えているのではないでしょうか。そして、さらに思います。それは、自分が相手から頬を打たれたから、それで頬を打ち返したからと言って、「何の解決にもならない」ということです。そうしたとしても、互いの感情がぶつかり合って、対立が深まるだけ・・・。そういうことが見えているから、頬を打たれたからと言って、すぐさま、やり返すことを避けているのではないかと思うのです。あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい…。このことが「できる」「できない」はともかくとして、そういう視点を持つことは大事なのではないかと思います。そこから見えてくる事柄があるのではないかと思うのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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