日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2015年12月20日の礼拝メッセージから

こんなわたしが愛されている

イザヤ書52章13-53章12


本日の箇所で、注目したい言葉は「わたしたち」という言葉です。この「わたしたち」というのは、主の僕がたどった歩みを、ずっと見つめています。53:3後半部分に次のように記されています。「彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(53:3b)。ここで「わたしたち」は、神から遣わされた主の僕を軽蔑し、無視していました。それは、この主の僕が、見るべき面影も、輝かしい風格も、好ましい容姿もなかったからでした。この人たちは、おそらく当たり前に、そう考えていたのではないでしょうか。自分たちから見て、尊敬できるような、凄いと思うようなものがないこの人に対して、ごくごく当たり前に、軽蔑したり、無視したりしていたのだと思うのです。
 53:4には、こんなことが書かれています。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」(53:4)。「わたしたち」は、主の僕が苦しんでいる姿を見て思いました。彼は神の手にかかり、打たれたから、苦しんでいるのだ・・・。そのように、目の前で苦しんでいる人を見て、これはこの人の問題だ・・・。自分には関係ない・・・。そんなふうに見ていたのです。これも当たり前のように、そう思っていたのだと思います。
 イザヤ書52:13-53:12には、「神様の愛」が表されています。人々を救うため、癒すために、「主の僕」を遣わしてくださった「神様の愛」が表されています。しかし、そのような「神の愛」について考えながら、もう一方で問われていることは、そんな「神様の愛」に対して無関心な私たちの姿です。せっかくの愛が分かっていないのです。私たちは、神様の愛をしばしば、そのように扱っていることがないだろうかと思います。そして、もし、そういうふうになってしまっているとするなら、そんな自分というのは、ここで記されている「わたしたち」のような眼差しになっていたりしないだろうかと思うのです。自分としては、ごくごく当たり前の感覚であれこれ考えたり、物事を見てきたつもりなのですが、実は本当に大切なものを見落としてしまっている・・・。自分に関わる大切なものなのに、さも自分には関係ないことのように考えている・・・。そんな中、本日の箇所の「わたしたち」のように、せっかく神様が示そうとしておられる神様の愛が見えない、愛に気づかない、受け取れない、そんなことがあるのではないかと思うのです。
 本日のイザヤ書の「わたしたち」と書かれている人たちの姿に、私は、自分自身の心の貧しさを思います。本当に自分勝手な眼差しで、でも同時に、そういう眼差しのゆえに孤独を抱え、神様も見いだせなくなって、救いも見いだせなくなっている・・・。そういう姿を見せられます。しかし、そんな「わたしたち」を救い出すためにイエス・キリストは来てくださいました。イエス・キリストは、そんな「わたしたち」のために苦しんでくださいました。「わたしたち」が無視してきたのに、気づかないでいたのに、「わたしたち」の犠牲になって、「わたしたち」に全てを献げて、救いの道を拓いてくださったのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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