日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年1月3日の礼拝メッセージから

主を求めて生きよう

アモス書5章4節


 新年初めの主の日に、与えられた御言葉は、アモス書5章4節の御言葉です。アモスという人は、預言者や祭司の家系ではなく、ただの農民の一人です。このただの人に主の言葉が臨んだのです。アモスという名前の意味は、「重荷を担う者」という意味です。彼は、まさに民の重荷を共に担う者として語ったのではないでしょうか。この人を通して、主が語られました。
 まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。「わたしを求めよ、そして生きよ」(アモス5:4)
求めるとは、何でしょうか。元の言葉では、「捜す」「尋ねる」という意味があります。別の訳では、「尋ね求める」とあります。主を尋ね求めるとはどういうことでしょう。そんなことを思う時に、思い浮かんだのは、福音書に出て来る、東方の学者たちの姿です。彼らは、幼子を拝むべく、旅に出ました。はっきりとした場所も分からないにも関わらず、星を頼りに旅をして、幼子のイエス様の元にやってきました。そして、彼らは、幼子の場所を見つけると、喜びにあふれた、と言います。そのように、今、主が、どこにおられるのか、捜しまわるその姿が、「尋ね求める」ということと重なるのではないでしょうか。主がどこで、今、働いておられるのか、そのことを探し求める。今、主の業は、どこで起こっているのか。主が何を眼差しておられるのか。そのことを、尋ね求める。探しだす。そういうことが、主を求める、ということです。
 あるいは、主に聞く、ということかもしれません。自分で出した答えではなく、主の答えを静まって聞く。そういうことかもしれません。
そして、主を求めよ、の後に続くのは、生きよ、という言葉です。「生きよ、求めよ」、という順番ではなく、「求めよ、そして生きよ」というその順番に注目したいです。生きるに先立って、まず、主を求めよ、そして生きる。求めるときこそ、私たちは、真に生きるものとなる、ということです。
 私たちは、真剣に主を求めるときに、主を見出すでしょう。その時、私たちは、真に生きるのです。なぜですか、と問うところで、主を見出すことができるでしょう。しかし、私たちは多くの場合、そういったことはせずに、自分たちの力で答えを出そうとしてしまいます。私たちは、自分たちの力で生きようとするとき、自分たちの造り主を忘れるとき、それが罪です。私たちが真に生きるとは、自分を生かす方を覚えて、その方に出会ってこそ、生きるのです。
 命というものは、主の御手のうちにあることを思わされます。主が造り、生かされます。もっとも信頼のおける方が、支えておられ、共にいてくださいます。その方に希望を置くことができることは、何という幸いなのでしょうか。
 恐れず、この主に期待して、歩んでいきましょう。この方は、悪いようにされる方ではありません。わたしたちに最善をなしてくださる方です。2016年、主を尋ね求める一年にしたいと思います。主と本当に出会う一年にしたいと思います。不安の中にあるかもしれませんが、主が何を自分に求めておられるのか、主が何と語られるかに、耳をすませる一年にしたいと思います。イエス・キリストを主と信じ、告白する私たちは、そこから始まっていくのだろうと思います。主に期待して、この一年歩んで参りましょう。

                       (青木紋子神学生)
 
                

 

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