日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年1月10日の礼拝メッセージから

そこから始めよう

マタイ15章32-39節


 本日は四千人の供食と呼ばれている箇所です。この箇所からイエス様と弟子たちとの会話に目を留めたいと思います。イエス様は目の前の群衆を見て「群衆がかわいそうだ」(15:32)と言われました。15:30を読みますと、この時、イエス様の前には「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人」がいたことが記されています。病人たちの傍らには、それを看病している人たちもいたのだと思います。そして、病人たち、病人を看病している人たち共に、ろくに食事をすることができない状態が続いていたのです。きっと皆、疲れはて、弱りはててしまっていたのではないかと思います。そういう人々の現状をご覧になられて、イエス様は「かわいそうだ」と言われました。それは彼らの現状を思いやった時のイエス様の切なる思いだったのだと思います。しかし、弟子たちは、イエス様の言葉を聞きながら、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」(15:33)と言ったのでした。
 本日の15:32-33のイエス様と弟子たちとの会話を読みながら思うことがあります。それは弟子たちはこの時、イエス様の言葉をどんなふうに聞いていたのだろうということです。彼らはイエス様の御心をきちんと受け取っていたのでしょうか。正直言って、そういうことにあまり思いを向けていなかったのではないかと思います。イエス様の言葉を彼らなりに聞いてはいたのかも知れませんが、イエス様がどんな思いでこのようなことをおっしゃっているのかということまでには思いを向ける余裕はなかったのではないかと思うのです。それより、自分たちの置かれている状況や自分たちの都合のことで心が一杯・・・。そんな姿を思います。そして、そんな弟子たちの姿を見ながら、私たちも、そんなふうになってしまっていることがあるんじゃないかと思いました。
 本日の状況の弟子たちの言い分は、よくよく分かる気がします。彼らも彼らなりに考えていたのだと思います。しかし、弟子たちは肝心なことを見落としてしまっていました。それは、ここで弟子たちにこのようにおっしゃっていたのは、他ならぬイエス様だったということです。弟子たちはこのことの意味をもっともっと考える必要があったのではないでしょうか。そして、自分たちであれこれ考えて、その思いをイエス様にぶつけることの前に、イエス様の言葉にもっときちんと耳を傾ける必要があったのではないかと思うのです。そして、そのことが、そのまま自分自身に問いかけられているように思いました。自分はどうだろうかと思うのです。時に自分も、あれこれと思いを巡らしたり、考えたりしながら、きちんと御言葉に聞くことの前に、最初から自分で答えを出してしまってないだろうか、そんなことを考えさせられました。御言葉に聞くことがどれだけ大切なことなのかということをこれまで自分なりに学んできたはずですし、御言葉に聞いていきたいとも思ってきたはずなのに、いつの間にか、そんなふうになってしまっていないだろうか・・・。そんなことを問われているように思いました。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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