日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年2月14日の礼拝メッセージから

愚かに見える道

マタイ16章24-28節


 救世軍の山室軍平について、以前にこんな話を聞いたことがあります。ある時、一人の人が集会後、山室軍平に色紙を渡して何かを書いてもらおうとしました。尊敬する山室先生が何と書いてくれるか、ドキドキしながら見守っていたところ、山室軍平は「キリストの馬鹿たれ」と書いたそうです。その人は驚いてしまいました。イエス・キリストに生涯を献げているような山室先生が、「キリストの馬鹿たれ」と書くなんて、どういうことだろうかと思ったそうです。でも、そうではありませんでした。山室軍平が色紙に書いたのは、「キリストの馬鹿でありなさい」という意味の、「キリストの馬鹿足れ」という意味でした。それをこの人は、「キリストの馬鹿野郎!」という意味の「キリストの馬鹿たれ」という意味に勘違いしたのです。私の中で強烈に心に残っている話の一つです。私たちがイエス・キリストを信じ、従っていこうとする時、キリストの馬鹿でありなさい・・・。山村軍平はそのことを教えてくれているのだと思います。そして、それというのは、大切なメッセージなのではないでしょうか。本日の箇所のメッセージも、私たちにそのようなことを呼びかけているメッセージなのではないかと思います。
 本日の箇所で、イエス様が弟子たちに語ったことは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということでした。まさに、「キリストの馬鹿たれ」に重なるメッセージなのではないかと思います。イエス様について行きたいなら、自分を捨て、自分の十字架を背負わなければならない・・・。そんなことをしなければならないなんて、本当に馬鹿らしいことに思えるかも知れません。私たちは本日のイエス様の呼びかけをどんなふうに聞くでしょう。何で、そんなことをするのか、しなければならないのか、人によっては全く理解できないかも知れません。しかし、私たちクリスチャンの先達たちは、このイエス様からの呼びかけを受けて、実際、「キリストの馬鹿」と思われるような歩みを歩んでいこうとしていきました。そもそも「クリスチャン」というネーミング自体、そういう歩みの中で生まれたものでした。かつて、イエス・キリストを信じる人たちを周りの人たちはバカにして「クリスチャン」と呼ぶようになりました。「あいつらはキリストの教えを大切にして、キリストの真似ごとばかりしている」。そのようなニュアンスで「クリスチャン」と呼んだのです。しかし、それを教会の人たちは恥じないで、受け入れました。まさにその姿というのは、自分たちが「キリスト馬鹿」と呼ばれても、それを「良し」として受け止めていった姿なのではないでしょうか。
 キリストに従うことは一見愚かに思える歩みかも知れません。しかし、本当はそうではありません。たとえ周りに理解されなかったとしても、自分自身愚かに思えるようなことがあったとしても、福音のメッセージを真に受けて、キリストの愛に押し出され、キリストの愚かさに生きる・・・。そこに真理があり、命に至る道があるのだということを覚えていたいと思います。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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