日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年2月28日の礼拝メッセージから

『したいと思うこと』の先にあるもの

マタイ17章9-13節


「言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(17:12)
 ここに「好きなようにあしらった」と記されていますが、ギリシア語の原文では「【qe,lw】テロー(したいと思う)」という言葉が使われています。人々は、バプテスマのヨハネが自分たちを救うために神様が遣わしてくださったエリヤだということが分かりませんでした。そして、それぞれ「したいと思うこと」をしました。結果、人々はバプテスマのヨハネをないがしろにし、反発し、苦しめていったのです。
この「【qe,lw】テロー(したいと思う)」という言葉は、他の箇所でも使われています。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイ1:19)
「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。」(マタイ12:38)
「ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。」(マタイ14:15)
「ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』」(マタイ27:17)
 マタイ福音書において「【qe,lw】テロー(したいと思う)」という言葉が使われている箇所を読む時、色々なことを考えさせられます。人々が「したいと思うこと」をしていく中で、どんなことをしていったのでしょうか。本日の箇所には、人々がバプテスマのヨハネを好き勝手にあしらい、苦しめたことが記されています。マタイ1:19では、イエス様の父ヨセフは、正しいことを「したいと思って」いたのですが、結局はそこでマリアが見捨てられてしまっているのです。マタイ12:38で律法学者とファリサイ派の人々が「したいと思った」のは、イエス様を疑い、試みることでした。マタイ14:15でヘロデは、自分にとって都合が悪い問題を覆い隠すために、ヨハネを殺「したいと思い」ました。マタイ27:17に至っては、ピラトから何度も「あなたは何をしてほしいのか」と聞かれたのですが、徹底してイエス様を拒絶し、イエス様を十字架につけようとしている人々の姿が記されているのです。
 私たちはどうでしょう。私たちの「したいと思うこと」の先にあるもの、向かっている方向はどんなものでしょうか。本日の箇所において、せっかく約束のエリヤが来たにも関わらず、それを認めることができず、好きなようにあしらい、傷つけ、苦しめた人々・・・。彼らの姿は、私たち自身であるかも知れません。私は自分自身のこととして思います。マタイ福音書の人々の「したいと思うこと」の先にあるものを見ていく時、それが時々の自分自身の姿ではないかと思います。そんな中、この「【qe,lw】テロー(したいと思う)」という言葉を通して、拭えない罪人としての私たちの姿が浮き彫りにされているように思うのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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