日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年3月20日の礼拝メッセージから

弟子たちは非常に悲しんだ

マタイ17章22−23節


 本日の箇所には、イエス様がなされた二度目の受難告知の様子が記されています。本日の箇所を読みながら心に留まったのは、「弟子たちは非常に悲しんだ。」(17:23)という言葉でした。弟子たちは受難告知を受け入れることができなかったのです。一度目に聞いた時には、イエス様に対して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16:22)と諌めようとさえしました。しかし、その時には、イエス様から「サタン、引き下がれ」(16:23)と叱られてしまいました。ですから、今回はあからさまに諌めようとはしていません。しかし、だからと言って、納得できたわけでも、受け入れたわけでもありませんでした。弟子たちはイエス様の言葉を黙って聞きながら、悲しんでいたのです。
 私は本日の箇所の様子を思いながら、二つのことを思いました。一つは、弟子たちがいくら悲しんでも、仕方のない状況があったということです。弟子たちは十字架を最後まで理解できませんでしたし、受け入れられませんでした。「そんなことあってほしくない」と思っていました。ですから、イエス様から十字架の話をされる度に、悲しかったですし、辛かったのです。だけど、どうしようもありませんでした。十字架は避けられないことだったのです。十字架なくしては、神様の救いの御業は完成しなかったのです。しかし、それに加えて思うことがあります。それは、ここで弟子たちが悲しんでいる姿を簡単に素通りしたくないということです。確かに十字架は必ず通らされることでした。仕方のないことでした。でも、「仕方ない」と言って簡単に割り切ることはしたくないと思うのです。
 本日の箇所で、悲しみに暮れる弟子たちの姿を見ながら、思います。イエス様は、そんなふうに悲しんでいる弟子たちの思いを誰よりもよくご存知だったのではないでしょうか。彼らの思いを受け止めておられたのだと思います。しかし、それでもイエス様は弟子たちに十字架を語りました。十字架は避けられないことだったからです。人々の罪の贖いのため、救いの業の完成のため、何より目の前で悲しみに暮れている弟子たちをも救うためにも、十字架を通らなければならなかったのです。それゆえ、イエス様は、弟子たちの悲しみを知りながらも、あえて十字架を語られたのです。そんなイエス様の姿に、私たちには計り知れない思いを抱え、悲しみを抱えながら、十字架へと向かわれている姿を思います。
 弟子たちは、そんなイエス様の思いを知っていたでしょうか。おそらく、イエス様の思いに心を向けることなく、自分の思いや悲しみだけで終わってしまっていたのではないかと思います。そんな中、イエス様が遠い存在に思えたり、これまでのようにイエス様を見上げられなくなって、イエス様のことが分からなくなってしまう・・・。そんな弟子たちの姿があったのではないかと思うのです。そして、そんな弟子たちのことを思いながら、ふと時々の自分の姿を思いました。様々な痛みや悲しみ、悩みを抱えながら、自分のことで終わってしまっている自分がいないだろうかと思うのです。目の前の人の思いを知らない…。そのような状況の中、時に大切なものを見落としてしまうことはないかと思ったのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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