日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年5月1日の礼拝メッセージから

神の国はそこから

マタイ18章15−20節


 本日の箇所で言われているのは、「兄弟があなたに対して罪を犯した」(18:15)という状況でした。一体、どんな罪を犯したのでしょうか。詳しい内容については書かれていませんが、「あなたに対して」と言われていますから、きっと、この人がその罪のせいで実際に迷惑を被り、傷つけられるような状況があったのだと思います。本当だったら、腹が立ってしかない・・・。そういう状況だったのではないかと思います。そんな中、罪を犯した相手に対して、忠告をしに行こうとしているのです。ここで注目させられるのは、忠告の目的が、「兄弟を得るため」だったということです。相手のことを裁き、犯した罪をとがめることが目的ではないのです。その人が自分のした過ちに気づいて、悔い改めることが目的なのです。そのようにして、その人を立ち帰らせ、兄弟として得るために、忠告をしに行ったのです。
私たちはそのような形で、人と関わった経験があるでしょうか。もし、そういう関わりをしたことがあるという方がおられるなら、きっと、それがどんなに大変か、痛感させられてきたのではないでしょうか。罪を犯した相手について、「この人がどうなっても関係ない」と思えるなら、相手がどんな態度を取ろうと一方的に断罪してしまえばいいのです。しかし、その人を兄弟として得たい・・・。兄弟として得られなかったりしても、相手をあくまで「大切な兄弟の一人」と見なそうとしている・・・。そういう思いの中で、相手の罪を忠告するというのは、簡単ではないのだと思います。
 本日の箇所には、「聞き入れなければ」と書かれています。せっかく相手を思い、相手を兄弟として得ようとしながら、相手に関わっているのに、相手が聞き入れようとしてくれないのです。忠告しに行った人にしてみれば、ガッカリさせられてしまう状況なのではないでしょうか。しかし実際に、こういうことはあり得るのだと思います。どれだけ私たちが、思いをもって、相手に関わろうとしても、こういう態度を取られてしまうことがあり得るのです。相手からしてみれば、自分の過ちを指摘されることは面白いことではありません。そんなこと言われたら、ムッと来るでしょうし、「何でそんなこと言われなければならないんだ」という思いになってしまうのではないでしょうか。そんな中、過ちを指摘され、悔い改めを呼びかけられても、聞き入れないということはあり得るのだと思うのです。
 私は、18:15-17の御言葉を読みながら、罪を犯した兄弟に関わろうとした人が一体、どんな思いだったのだろうと考えさせられました。この人は、あくまで相手を兄弟と見なして、関わってきました。しかし、その思いも届きませんでした。この人を始め、多くの人たちが、この兄弟に関わりましたが、きっと、この兄弟に関わってきた人たちは、みんな悩んだと思いますし、傷つき、辛い思いを経験してきたのではないでしょうか。しかし、そんなことを想像しながら、それが「共に生きる」ということなのかも知れないとも思いました。私たちが共に生きようとしていく・・・。その時に、私たちは多かれ、少なかれ、本日の箇所に記されているような悩みや葛藤を通らされることがあるのではないかと思ったのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

       (TOPに戻る)

Copyright (C) 2001-2007 Meinohama Baptist Church. All Rights Reserved.