日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年5月8日の礼拝メッセージから

ゆるされた者として

マタイ18章21−35節


 ペトロはイエス様に「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」(18:21)と質問をしました。ペトロは何故こんな質問をしたのでしょう。本日の箇所の直前には、イエス様が「兄弟があなたに対して罪を犯した」(18:15)時について、お話になったことが記されています。ここでイエス様は、様々なことをお話になりました。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(18:15)ということ・・・。しかし、その兄弟が「聞き入れない」(18:16)際についての話もされました。罪を犯した兄弟は、個人的に忠告しても、一人か二人の仲間を一緒に連れていっても、教会全体として関わろうとしても、最後の最後まで聞き入れないことがあるというのです。結果、この兄弟を異邦人か徴税人と同様に見なさなければならなくなっている様子についてお話をされたのでした。そんなイエス様のお話を聞いた後、ペトロは本日の質問を切り出しました。ペトロにしてみれば、イエス様のお話は身に覚えのある話だったのではないでしょうか。実際に、ペトロの周りにそういう人がいたのかも知れません。ペトロの尋ね方は実に具体的です。ペトロはイエス様に対して「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねました。本音とすれば、一回でも赦したくなかったのかも知れません。しかし、色々な思いを抱えながら、「七回までは赦すべきですか」と尋ねているのではないかと思います。しかし、イエス様のおっしゃったことは、ペトロの思いをはるかに超えていました。イエス様は、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃったのです。ペトロは、イエス様の言葉をすんなりと受け止めることはできなかったのだと思います。するとイエス様はペトロにたとえを語りました。それが18:23以降に書かれている王様と家来のたとえでした。
 イエス様のたとえを聞きながら、多くの人が「この家来はとんでもないやつだ!」と考えるのではないでしょうか。しかし、この家来こそ、私たち自身の姿なのだと思います。この家来の問題は何だったのでしょう。色々なことが言えるかも知れませんが、何より思うのは、この家来が、これだけ王様にたくさんの負債を赦されたにも関わらず、その赦しがすっかり抜け落ちてしまったことではないでしょうか。家来は、自分がお金を貸した仲間を目にした時、自分がそれよりはるかに大きなものを赦してもらってきたことなど全く心にかけていません。そのことがどこかに飛んでしまっているのです。そんな家来の姿を見ながら、自分はどうだろうかと思います。神様から赦されているということが、日々の歩みの中で、すっかり抜け落ちてしまっていないだろうか・・・。そもそも私たちは、本当に神様から受けた赦しが分かっているだろうか・・・。分かっているつもりでいながら、本当のところでは分かっていない・・・。そういうことはないだろうかと思うのです。結果、ささいなことで、人を赦せない・・・。裁いたりしている・・・。本日の家来の姿というのは、まさにそのような私たちの姿かも知れないと思うのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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