日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年6月19日の礼拝メッセージから

エルサレムで見るもの

マタイ20章1−16節


 本日の御言葉は、「受難告知」と呼ばれている箇所です。イエス様は、これから御自身が受けられる十字架の苦難について、あらかじめ弟子たちに預言してお話になったのでした。新共同訳聖書には、小見出しに「イエス、三度死と復活を予告する」と書かれています。そのように、イエス様が十字架のお話を弟子たちにされたのは、これで三度目でした。この時、弟子たちはイエス様の話をどんな思いで聞いていたのでしょう。マタイによる福音書には、これまで二度、イエス様が十字架の話をされたことが書かれています。そこで弟子たちは、イエス様に対して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16:21)と言って、十字架の話をすることをいさめようとしたり、イエス様の話を聞きながら、非常に悲しんだ様子が記されています(17:21)。おそらく本日の箇所も同じだったのではないでしょうか。弟子たちはイエス様から十字架の話を聞きながら、心の中で「耳を塞ぎたい」と思っていたのではないかと思うのです。
マタイ16:21-28で、イエス様が最初に十字架の話をされた時、真っ先にそれを拒んだのは、ペトロでした。すると、ペトロに対して、イエス様は次のように言って戒められました。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)。
十字架の話を遮ろうとするペトロに対して、イエス様は「あなたがそんなふうに十字架を抜いたところでわたしを見上げようとするなら、それはサタンの誘惑なんだ。そして、それはあなたが神様を見上げようとしないで、自分の肉の思いに捕らわれてしまっているからなんだ」と言われました。この言葉というのは、私たちにも語られているんじゃないかと思います。何というのでしょう。私たちというのは、弟子たちがそうであったように、心のどこかに、十字架なんかないところでイエス様を見上げていたいという思いがあるのではないでしょうか。イエス様は見上げていきたい。でも、十字架なんかないところで、イエス様を見上げていきたい。そういう思いがあるのではないかと思うのです。でも、そんなふうに、十字架を抜いたところでイエス様を見上げようとしてしまう時、私たちはどこに向かおうとしているでしょう。本日の箇所で、イエス様が言われたように、サタンの誘惑に惑わされるようにしながら、肉の思いのまま、突き進んでいる…。そういう私たちがいるのではないかと思います。そして、そういう私たちの心の向きというのは、色々な形で波及しているのかも知れません。私たちというのは、しばしば、私たちにとって大切なことのはずなのに、自分が見たくないことや都合の悪いことにどうしても目を背けようとしてしまう…。そういう私たちがいるのではないかと思うのです。その結果、私たちはどんどんおかしな方向に向かってしまうことがあるのではないでしょうか。そんなふうにしながら、行きついてしまう最も恐ろしい行く末が、戦争なのではないかと思います。
。それが天の国のまなざしだったのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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