日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年7月17日の礼拝メッセージから

何をしてほしいのか

マタイ20章29〜34節


 イエス様たちがエリコを出て、エルサレムに向かおうとしていた時、二人の目の見えない人が道ばたに座っていました。この二人は、イエス様がお通りだと聞くと、すぐさま、イエス様に「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのでした。
 本日の箇所を読みながら、まず心に留まったのは、「イエスがお通りと聞いて〜叫んだ」という記述です。さっと読み過ごしてしまうような記述かも知れません。しかし、私たちがもし、この目の見えない人たちのような状況に置かれたら、こんなふうに叫ぶことができるだろうかと思いました。どうでしょう。実際にこのような状況に置かれたら、色々な思いが湧き上がってくるかも知れません。恥ずかしいという思いだったり、呼び求めたって無駄だよという思いがわきあがってくるのではないでしょうか。いざ声を挙げようとすると、それに対して、周りからは色々な声が聞こえてくるかも知れません。本日の箇所でも、目の見えない人が主を求めると、それを叱りつける人がいたりしました。そんなこと言われたら、すぐにシュンとなってしまって、黙ってしまうかも知れないと思うのです。
 本日の箇所を読みながら、もう一つ、心に留まったのは、イエス様が目の見えない人たちに対して、「何をしてほしいのか」と言われた時、彼らが「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えた姿です。この記述に関しても、私たちが同じようにイエス様から問われたら、何と答えるだろうと思いました。イエス様に対して、自分の中に秘めた願いや悩み、思いをイエス様に訴えることができるでしょうか。こんなこと願ったって無駄だ…。そういう思いが先に立ってしまうかも知れないと思いました。そんなことを思いながら、本日の目の見えない人の行動が必ずしも自明なことではないのではないかと思いました。私だったとしたら、イエス様が目の前を通ってくださったとしても、通っていかれるのを黙ったまま、見ているだけで終わってしまったかも知れないと思ったのです。
 何でこんな話をするのかというと、本日の箇所に記されている道ばたというのは、私たちにとって遠い場所ではないんじゃないかと思うからです。イエス様は、今この時にも、私たちの近くにきてくださっています。本日の目が見えない人たちがそうであったように、私たちは目の前におられるイエス様を見ることができないかも知れません。しかし、今この礼拝のただ中にもイエス様はおられます。そして、私たちに近づいてくださっているのです。そのように考える時、本日のこの場面というのは、たとえば、この礼拝の場所がそうであるかも知れないと思うのです。そんな中、私たちはこの礼拝でどんなふうにイエス様に向き合っているでしょうか。イエス様に私たちは叫び求めているでしょうか。「何をしてほしいのか」と言われるイエス様の招きに、祈りでもって答えているでしょうか。残念ながら、私たちは、しばしば、そういうことなしに、イエス様が素通りしているのを黙ったまま終わってしまう…。そんな礼拝を献げてしまっているかも知れないと思うのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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