日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年8月14日の礼拝メッセージから

権威ある者の言葉

マタイ21章23〜27節


 本日の箇所には、祭司長や民の長老たちがイエス様に対して「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」(21:23)と質問した様子が記されています。こういう言い方は、当時のイスラエルの人々の考え方を色濃く反映した言い方です。当時のイスラエルの人たちは、とかく権威を重んじるところがあったのです。当時の人たちがよく使った言い方があります。それは、「かつてかの誰々がこう言った、ゆえに私はこう言う。」という言い方です。これは、ある意味、決まり文句のように使っていた言い方でした。昔の偉人の言葉と自分の言葉と重ねることで、自分の言葉に「はく」をつけていたのです。しかし、イエス様は「アーメン、わたしはあなたがたに告げます。」という言い方で語られていました。当時、こんな言い方をしている人など、誰もいませんでした。祭司長や民の長老たちからしてみれば謎でした。ですから、イエス様に「何の権威で」と聞いたのです。
 これに対して、イエス様は、祭司長や民の長老たちに質問を返しました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか、天からのものか、それとも、人からのものか」(21:24-25)。この質問に対し、祭司長や民の長老たちはあれこれと論じ合いました。その結果、彼らは「分からない」と答えたのです。祭司長や民の長老たちの姿から思うことがあります。それは、彼らがきちんと「ヨハネの洗礼はどこからの権威だったか」ということを考えようとはしていなかったということです。彼らはバプテストのヨハネのこともそれなりに聞いていましたし、ヨハネの働きや活躍も知っていたのだと思います。ですから、ヨハネの洗礼はどこからの権威だったかということについても、ちゃんと向き合って考えれば、彼らなりに思うこともあったのだと思います。しかし、彼らはそんなふうに考えませんでした。彼らの議論の争点は、自分たちがどう質問に答えれば、自分たちの立場を守れるかということでした。自分たちがもし、「天からのものだ」と言った時には自分の間違いを認めることになりますし、「人からのものだ」と言った時には、民衆の怒りを買うことになりかねませんでした。そんな中、答えを誤魔化すために「分からない」と答えたのです。
 本日の箇所を読みながら、思うことがあります。それは、この時、祭司長や民の長老たちが大切な岐路に立たされていたということです。それは、イエス・キリストの権威に出会うという岐路でした。そのことにきちんと出会うためには、彼らはイエス様に対して真っすぐに向き合い、イエス様の質問にきちんと向き合うことが必要だったのだと思います。「ヨハネのバプテスマの権威はどこから来たのか」。彼らにだって、薄々感づいていることがあったんじゃないかと思います。そして、その質問に向き合う時、おのずと見えてくることがあったのだと思います。しかし、彼らは肝心な問題に向き合うことを恐れて、問題を誤魔化してしまいました。結果、彼らはせっかく、イエス・キリストの権威に出会うという岐路に立たされていたにも関わらず、大切なことを知ることができなかったのです。

                         (鈴木牧人)
 
                

 

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